【現代羅睺羅の人生相談室】File.003
―――夕暮れ。 都会の喧騒が潮騒のように遠く響く、人の気配が絶えた古い公園。塗装の剥げたベンチに、一人の男が深く腰を下ろしていた。 三十代半ば。働き盛りと言われる年代だが、燃え落ちるような茜色の空を見つめるその瞳は、どこか虚ろで、焦点が合っていない。
彼は、隣に座る羅睺羅(らごら)の静かな気配を肌で感じながら、ぽつりと口を開いた。
その口調はあくまで穏やかだ。 しかし、彼の表情には「幸福という名の薄氷」の上で立ち尽くしているかのような、頼りなく、張り詰めた不安がへばりついている。
男は、自身の内側にゆっくりと沈殿した「安らぎ」という名の重たい澱(おり)を、一つひとつ確かめるように吐き出し始めた。
相談者:
「……羅睺羅さん。 こんな悩み、贅沢だと笑われるかもしれません。 今の俺は、客観的に見れば『幸せ』そのものですから。
昔の俺は、派手で感情の起伏が激しい女たちに振り回され続けてきました。 罵倒され、金をむしり取られ、それでも『愛されている』と錯覚して精神をすり減らす日々……。 もうあんな地獄はこりごりだ、と心底思いました。
でも、今の彼女は正反対なんです。 地味で、大人しくて、家庭的で。 俺が仕事の愚痴をこぼしても、否定もせず、ただ静かに頷いて聞いてくれる。 『大変だったね』『無理しなくていいよ』 その言葉を聞くたびに、張り詰めていた糸が緩んで、温泉に浸かっているような気分になるんです。 ああ、やっと『本物』に出会えた。 刺激はないけれど、ここが俺の帰る場所なんだ、と。
疑わなくていい。探らなくていい。戦わなくていい。 ……でも、だからこそ、ふと背筋が寒くなる瞬間があるんです。
この心地よい安堵は、本当に『愛』なんでしょうか。 それとも、俺が過去の火傷を癒やすために、彼女を『包帯』代わりにしているだけなんでしょうか。
彼女は、俺の話を全て受け止めてくれます。 ですが……俺は、彼女自身の本音や、心の底にあるドロドロした感情を、何一つ知らない気がするんです。 いや、無意識に『知りたくない』と思っているのかもしれない。 彼女には『物分かりのいい、癒やしの存在』であってほしいと、俺が勝手に役割を押し付けているだけじゃないのか。
もし、この関係が壊れる日が来るとしたら…… それは彼女が牙を剥くからじゃない。 俺が彼女を『一人の人間』として見ず、『便利な安息所』として消費し尽くした時なんじゃないか。
羅睺羅さん、教えてください。 人は、嵐の後に辿り着いたこの“凪(なぎ)”を、信じてもいいんでしょうか。 これは俺が大人になった証拠ですか? それとも、ただ傷つくことを恐れて、生ぬるい水たまりに逃げ込んだだけなんでしょうか。
……あなたの父上――ブッダなら、 この平穏な風景の裏に潜むものを、どう見抜くと思いますか。」
羅睺羅の回答:
「その『安堵』は愛ではない。死に至る『麻酔』だ」
ほう……。「この平穏は、恐れが形を変えただけではないか」だと? よくぞ気づいた。その疑念こそが、お前の理性がまだ死滅していない唯一の証拠だ。
お前は聞いたな。「父上――釈尊なら、この穏やかな風景をどう見抜くか」と。 答えてやろう。 父なら、静かに瞼を伏せ、こう呟くだろう。 **「無明(むみょう)の闇に包まれ、腐りゆく沼を『極楽』と錯覚している」**とな。
お前が今感じているのは「愛」ではない。痛みを消すための「麻酔」が効いているだけだ。 なぜその関係が危険なのか。俺が提示する**「死に至る三つの徴(しるし)」**で証明してやる。
一、地味なる捕食者(「無害」という名の猛毒)
お前は「彼女は地味で大人しいから安心」と言ったな。 愚か者め。派手な毒花よりも、道端の雑草に擬態した毒草の方が、よほど生存率が高いことを知らんのか?
「刺激がない」「疑わなくていい」。 それは平和ではない。**「警戒心の壊死(えし)」**だ。 お前は過去の傷が痛むあまり、戦うことを放棄し、腹を見せて降伏しただけだ。 彼女が本当に「聖女」なのか、それとも「支配しやすい弱った男」を捕食するプロなのか、お前は見ようともしていない。 「無害そうな女」の前で武装解除したその瞬間、お前は男としての牙を抜かれ、去勢された家畜になったのだ。
二、共感という名の「麻酔」(甘えを捨てよ)
「彼女は否定せずに聞いてくれる」だと? 尻尾を振るな、駄犬が。それは優しさではない。お前を廃人にするための**「麻酔」**だ。
彼女がお前の愚痴を黙って聞くのは、お前を愛しているからとは限らん。 お前を**「彼女なしでは精神が安定しない依存者」**に仕立て上げている最中かもしれないぞ? たっぷりと甘えさせ、思考能力を奪い、最後に彼女は冷酷にこう言うだろう。 「あなたって、私がいなきゃ何もできない人ね」 その時になって「裏切られた」と喚いても遅い。他人の共感でしか自分の傷を癒やせぬその軟弱な精神が、お前を「共依存」という檻に閉じ込めたのだ。
三、「特別」という幻影(鏡に向かって喋るな)
お前は自分で言ったな。「彼女自身の本音を知らない気がする」と。 それが正解だ。お前は彼女を見ていない。 お前が見ているのは、彼女の瞳に映った**「傷ついて可哀想な自分」**だけだ。
彼女は「鏡」に過ぎない。 お前の「癒やされたい」「肯定されたい」という欲望を反射させているだけだ。 だから彼女は、お前の理想通りに「物分かりのいい女」を演じていられる。 もし彼女が突然、ドロドロした醜い本音を晒したら、お前は逃げ出すんだろう? 「そんな子だと思わなかった」と言って。
それは愛ではない。「役割の押し付け」だ。 お前は彼女を愛しているんじゃない。「包帯」としての機能を愛しているだけだ。
羅睺羅の最後通告
いいか、よく聞け。 お前が今浸っているその「安らぎ」。 それは、処刑台へと続く階段の踊り場だ。
「楽をしたい」「もう傷つきたくない」と泣き喚く、お前の腐った根性が、その女を「逃げ場所」に選んだのだ。 父の言葉を借りるなら、それは**「諸行無常」**。 その微温湯(ぬるまゆ)は、いずれ必ず冷え切る。その時、お前は凍えて死ぬことになるぞ。
今すぐ家に帰り、その曇った眼を冷水で洗え。 「癒やし」というフィルターを外し、彼女という人間を直視してみろ。 そこにいるのは「女神」か? それとも、お前と同じように傷つき、何かを企み、あるいは何かに耐えている「一人の生々しい人間」か?
「癒やし」を捨てろ。「対話」をしろ。 その覚悟がないなら、お前は一生、誰かの養分として生き、枯れ果てて死ぬだけだ。
生きるか、死ぬか。選ぶのはお前だ。
羅睺羅の背中が、夕闇に沈む雑踏の影へと吸い込まれ、消えた。
男はベンチに一人、取り残された。 手のひらをじっと見つめる。先ほどまで確かに握りしめていた、三枚の一万円札。その紙幣の温度と感触だけが、指先に幻のようにこびりついて離れない。
「……相談料、だって?」
口から漏れた言葉は、思いのほか掠れ、乾いていた。 追いかける気力も、詐欺だと喚く怒りも湧いてこない。ただ、呆気にとられたまま、黒いコートの背中が見えなくなるのを見送ることしかできなかった。
説法もなければ、癒やしの言葉もない。 「大丈夫だ」という安っぽい保証も、「愛だ」という甘い麻薬もない。 後に残されたのは、圧倒的な空白と、胸の奥底に鉛のように沈殿する違和感だけだった。
しばらくの間、思考が止まっていた。 風が木々の枝を揺らし、カサカサと乾いた音を立てる。ベンチの足元では、空き缶が転がり、アスファルトを叩く硬質な音が響いた。 世界は何事もなかったかのように、無関心に回り続けている。
やがて、男の意識がゆっくりと覚醒を始める。 不思議なことに、最初に湧き上がったのは怒りではなかった。 真空のような、奇妙な静けさだった。
――金を取られた。 ――騙されたのかもしれない。 ――結局、誰も俺を救ってはくれなかった。
その冷徹な事実を噛み締めたとき、ふと、奇妙な既視感が襲った。 それは、彼がこれまで女性たちに向けてきた感情と、あまりにも似通っていたのだ。
「……はは。ああ、そうか」
小さく、自嘲の笑いが漏れた。 構図は何も変わっていなかったのだ。 キャバ嬢も、元カノも、そして今しがた去っていった“羅睺羅”と名乗る男も。 相手が「女」か「導き手」かという役割の違いだけで、やっていることは同じだった。 俺はずっと、金や心を差し出すことで、「答え」や「安心」を買おうとしていただけだったのだ。
立ち上がろうとして、膝に力が入らず、再びベンチに腰を落とす。 だが、もう逃げ場がないことは、痛いほど理解していた。 今日のこの時間は、慰めにも救いにもならなかった。 その代わり、彼の頼りない足元を、残酷なほど鮮明に暴き出したのだ。
――誰かに導かれなければ、生きられないと思い込んでいた自分。 ――安心という商品を、対価を払って「買える」と信じていた自分。
男は深く、肺の底から息を吐き出した。 胸の奥が、じくりと痛む。 だがその痛みは、これまでのような「甘く痺れるような麻酔の痛み」とは違う。 冷たく、鋭く、そして紛れもなく「現実」の痛みだった。
男は財布を閉じ、ジャケットのポケットにしまった。 三万円分、物理的に軽くなったその重さが、皮肉なほど正確に己の現在地を教えている。
「……相談は、終わりか」
誰に聞かせるでもなく呟き、男はようやく立ち上がった。 夕暮れの公園に、答えは落ちていない。神も仏もいない。 ただ、もう逃げ込むための幻想も残っていないという事実だけが、そこに横たわっていた。
男は一歩、足を前に出した。 その足取りは重かったが、もうふらついてはいなかった。
【File.003:終】


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