高市早苗、戦いの歴史【前編】
奈良の普通の家庭に生まれた少女が、ロックとバイクに明け暮れた青春を経て、政治という修羅の道に入り、
数々の試練(落選、スキャンダル、病気、離婚、死別)を乗り越え、ついに日本の頂点に立った。
しかしそこはゴールではなく新たな試練のスタートだったのです。
教育勅語に育まれた幼年期
昭和30年代後半、奈良の一般家庭。早朝、まだ薄暗い廊下。ザッ、ザッという規則正しい音が響く。
小さな手が、固く絞った雑巾で床を拭き上げていく。奈良市のどこにでもある住宅街の一角に、その家はあった。
父はトヨタ系の自動車会社に、母は奈良県警に勤める共働きの家庭。そこは政治とはおよそ縁遠い、ごく平凡な家庭だった。
しかしこの家には、明治という時代の気風が、時を超えて棲みついていたのだった。
毎朝、日が昇るとともに仏壇へのお供えをし、膝をついて雑巾で床を拭く。受験の前日であろうと、体調が優れない日であろうと、例外はなかった。
そして何より、まだ幼い早苗に小学校に上がる前から両親が叩き込んだのは、「教育勅語」の精神だった。
父も母も全文を諳んじており、言葉の意味よりも先に、その調べと重みが幼い早苗の体のなかへと染み渡っていったのだ。
1961年3月7日、高市早苗はそんな家庭に生を受けた。
彼女の背骨に一本の鋼(はがね)が通ったのは、政治家になる遥か昔、このごく普通の、しかしとてつもなく厳格な家庭でのことだった。
両親が描いた未来図は、あまりにも完璧で、そしてあまりにも退屈だった。
「大学は実家から通える短大。就職は近鉄か奈良県庁か地元の銀行。そこで良い人を見つけて、家庭に入りなさい」
地に足のついた、堅実な人生設計だったが、十代の早苗には、それが窒息するような拘束に映った。
「短大以外に進むなら学費は出さない」という親の言葉は、岩盤のように動かなかった。だが、そんな岩盤を前にして諦めるような早苗ではなかったのだ。
「絶対に、東京へ行ってやる」親の猛反対を押し切り、彼女は机にかじりついた。そして手にしたのは、慶應義塾大学の合格通知だった。
しかし現実は冷たかった。入学金も生活費も工面できず、合格通知を握りしめたまま、入学を断念するしかなかったのだ。
だが、ここで心が折れるようなら、後の「鉄の女」は生まれていない。「私立がダメなら、学費の安い国立大学なら文句はないはずだ」。
感情ではなく論理で、親をねじ伏せる。彼女は怒りを勉強のエネルギーに変え、神戸大学経営学部への合格をもぎ取ったのだ。
それは、彼女が「論理と結果」という武器を使って、親という権力に初めて勝利した、記念すべき瞬間だったのだ。
ヘビメタと爆音の青春
神戸の風は、奈良のそれよりも荒く、そして自由だった。毎朝、雑巾がけをして「教育勅語」を唱えていた少女は、もうどこにもいない。
神戸大学のキャンパスにいたのは、ヘヴィメタルバンドでドラムスティックを握り、
カワサキ「Z400FX」にまたがって峠道を攻める、革ジャン姿の「走り屋、早苗」だったのだ。
漫画『バリバリ伝説』の世界そのままに、裏六甲や阪奈道路の峠を攻める。
リッチー・ブラックモアの「レインボー」に魂を捧げ、「ブラック・サバス」の重低音に打たれた。
コピーバンドのステージでは最後列に陣取り、激しいビートを叩き続けたのだ。
その情熱は年月を経ても冷めることなく、後年テレビ番組でX JAPANの『Rusty Nail』を完コピで熱唱し、視聴者の度肝を抜くことになる。
バイクへの愛も本物だった。愛車は後に「Z400GP」へと進化し、鮮やかなライムグリーンの車体で「裏六甲」や「阪奈道路」を駆け抜けたのだ。
モーターショーのイベントコンパニオンで稼いだ資金でトヨタ・スープラを乗り回し、たばこの紫の煙をくゆらせ阪神タイガースの試合に熱狂した。
当時のスナップ写真の中の彼女は、長い髪をなびかせ、バブル前夜の熱気を全身に纏っていたのだ。
後の「保守の論客」の原型は、この爆音と紫の煙の中にあった。
彼女にとって、それは単なる遊びではない。厳格すぎる親への、全身全霊の反逆の狼煙(のろし)だったのだ。
破天荒な日々の底には、しかし、静かな知性が眠っていた。
大学卒業を控え、国家公務員試験にも手応えを感じていたある日、学内の壁に一枚のポスターが貼り出されているのを見つけた。
『松下政経塾、塾生募集』パナソニック(旧松下電器)を一代で築き上げた「経営の神様」松下幸之助が、
私財70億円を投じて設立したリーダー育成機関だ。
倍率は数十倍。政界・財界のエリートを輩出することが期待される、途轍もない場所だったのだ。
当時の彼女は、すでに国家公務員試験にも手応えを感じ、両親が望む「安定した未来」への切符をほぼ手中に収めていた。
そのまま進めば、間違いのない人生だったはずだったのだ。しかし、彼女の足はそのポスターの前で釘付けになった。
「政治家になりたいわけじゃない。ただ、この目で松下幸之助を見てみたい」湧き上がったのは、野心ではない。抑えきれない好奇心だったのだ。
その瞬間、彼女は手に入れたばかりの「公務員」というプラチナチケットを破り捨てた。
「神様に会いに行く」その無鉄砲な衝動だけが、彼女を突き動かしたのだ。
~革ジャン、キス、そして包帯。伝説の受験生~
その日は、後に政界の語り草となる日だった。
場所は、松下政経塾の一次試験会場。
リクルートスーツに身を包んだ「優等生」の群れを切り裂くように、爆音が響く。
現れたのは、愛車にまたがり、革ジャンにブーツで固めた高市早苗だったのだ。
面接官を務めた1期生・野田佳彦は、その異色ぶりに目を剥いた。しかし、呆れるどころかニヤリと笑った。
「こいつは面白い。かっけぇな」
評価シートには、特大の二重丸がつけられたのだ。
二次試験では、さらなる事件が起きた。
厳重な警備が敷かれた政経塾の門の前で、彼女は当時の彼氏と別れを惜しむ熱烈なキスを交わした。それが監視カメラにバッチリと捉えられていたのだ。「門の前でキスをしていた受験生がいる」という噂が塾内を駆け巡る中、彼女は最終面接へと進んだ。そして最終三次面接の相手は、90歳近い松下幸之助氏その人だった。しかしここでも、彼女はトラブルに見舞われていたのだ。
直前にバイク事故を起こし、顔に傷を作り、包帯を巻いたまま会場に現れた。普通なら不採用確実の状況だが、彼女の耳には、父の声が響いていた。
「どんな時も、運の良さそうな顔をしていろ」傷だらけの顔で、精一杯の愛嬌と笑顔を作って椅子に座る。
そこへ、松下幸之助氏は静かに問いかけた。
「君は、運がええか?」
「はい、最高に良いです!」
即答だった。一瞬の迷いもなかった。老いた神様の目が、細くなった。その瞳の奥にある強烈なバイタリティを、松下幸之助は見逃さなかったのだ。
「運の強さこそがリーダーの条件だ」。
合格は、即決だった。
こうして、ヘビメタとバイクを愛する破天荒な女子大生、高市早苗は、日本政治のエリート養成所へと足を踏み入れたのだった。
親の敷いたレールを走ることを拒み、何度も壁にぶつかりながら、そのたびに論理と気力で突破してきた一人の女性が、いよいよ政治の世界へと踏み出す扉の前に立った瞬間だったのだ。
~ジュリアナの熱狂、師の予言
バブルの絶頂期、日本は熱に浮かされていた。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉が毎日のように酒席の挨拶のように飛び交い、
東京では万札がタクシーを止め、地価は天を突き、株価は永遠の上昇を信じられていたのだ。
誰もが疑わなかった。「日本の繁栄は未来永劫続くのだ」と。
しかし、京都・東山の麓にたたずむ松下政経塾には、世間とはまるで違う空気が流れていたのだ。
晩年の松下幸之助は、浮かれる塾生たちを前にして、静かに、しかし確信を持って語った。
「今の繁栄は、砂上の楼閣や」
場が凍りついた。続く言葉は、予言というより断言だったのだ。
「アメリカ一強の時代は終わる。これからはアジアが台頭する。米ソ冷戦も、まもなく終わるやろう。そして日本はこれから、長い長い不況の時代に突入する。その時、国を支える仕組みが必要なんや」
世間に、この老人の言葉を本気で信じる者はいなかった。バブルの喧騒は、松下幸之助の声をかき消していたのだ。
しかし、高市早苗の背筋には戦慄が走った。直感が告げていた。
「この老人の目は、私たちには見えない未来を見ている」。師の言葉が、真実として体に染み渡ってくる。
国が傾くのであれば、経営者になって利益を追い求めている場合ではない。崩壊する日本を、法制度という骨組みで支えなければ、政治家にならなければ。
強い確信が早苗の心に宿った瞬間だったのだ。狂乱のバブルの裏側で、彼女は一人、覚悟を決めたのだ。
「30歳までは爪を研ぐ。30代になったら、必ず国政へ出る」経営から国政へ、早苗は天啓に導かれるように人生の舵を、大きく切ったのだった。
師の教えを胸に、高市早苗は単身アメリカへ渡った。目指したのは政治の心臓部、ワシントンD.C.だった。
彼女が飛び込んだのは、民主党の女性下院議員パトリシア・シュローダー氏の事務所だった。
「コングレッショナル・フェロー(議会研究員)」という肩書きは確かに体裁が良かったが、現実は土にまみれた修業の日々だったのだ。
朝7時に出勤し、深夜までコピーを取り、有権者からの手紙に返信を書き、山のような資料を仕分けする。
華やかな外交の表舞台とはほど遠い、泥臭い下働きだったが、彼女はその現場で、政治の血と肉を学んでいたのだった。
ロビイストたちが繰り広げる水面下の攻防。一本の法案が成立するまでに積み重ねられる根回しと妥協と駆け引き。
そして、国益という名の剣を手に戦う人間たちの、むき出しのリアリズム。日本の議会では決して見えない景色が、そこにはあったのだ。
ワシントンの冬は骨の髄まで冷えた。だが彼女は凍えなかった。
立法実務の感覚と国際的な視野が、修業を重ねるごとに武器として研ぎ澄まされていくのを、確かに感じていたからだったのだ。
1989年、帰国した高市早苗をメディアが放っておかなかった。
『朝まで生テレビ!』『サンデーモーニング』――討論番組に新進気鋭の論客として呼ばれるようになり、田原総一朗氏ら百戦錬磨の大物を相手に、理路整然と持論を展開する若き女性論客がいたのだ。
それが、高市早苗だった。
帰国直後の彼女は、その知的で華やかな美貌と鋭い舌鋒で、瞬く間にお茶の間のスターとなった。
フジテレビではメインキャスターの座も射止め、時代の寵児(ちょうじ)として君臨していた。
収録が終わると、彼女は誰よりも深く頭を下げ、楽屋へ急ぐ。テレビカメラの届かない場所に、本当の彼女がいたのだ。
メイク室から出てくる高市早苗は、安物のシャツにジーンズ姿だった。出演料のほとんどは貯金した。目標はひとつ、選挙を戦うための軍資金、目標金額は「2000万円」だ。
そのためなら、今の生活がどれほどみすぼらしくても構わなかったのだ。
食費は極限まで削った。パンの耳をかじり、特売のカップ麺で腹を満たす夜が続いた。
遠方への移動は格安の夜行バスだ。華やかなテレビ衣装もスタイリストには頼まず、安く手に入れた服を自ら直して着回したのだ。
「贅沢は敵だ」
それは節約というより、決意の表明だったのだ。
バブル崩壊の足音が、街の奥からかすかに聞こえ始めていた。師・松下幸之助の予言が、現実へと変わりつつある。
日本の黄昏が近づくなか、高市早苗はただ一人、来るべき戦いの日へ向けて、静かに爪を研ぎ続けていたのだ。
この国がバブルの夢から覚める時、私が戦場に立っていなければならない。
高市早苗のその目には、故・松下幸之助が見た日本の未来が、確かに映っていたのだ。
1. 惨敗 — 「マドンナ旋風」の生贄
1992年の、参議院選挙。31歳の高市早苗は、初めて国政の場に打ってでた。
当時の政界は、社会党の土井たか子委員長が巻き起こした「マドンナ旋風」が吹き荒れていたのだ。
「おたかさんブーム」に焦った自民党本部は、対抗馬として若く知的な女性キャスターだった高市氏に白羽の矢を立てたのだ。
しかし、現実は残酷だった。地元・奈良県連と党本部の調整がつかず、公認が得られないまま高市早苗は「無所属」での出馬を余儀なくされたのだ。
組織票を持たない彼女は、必死に街頭に立ったが、結果は次点という結果に終わったのだ。
2000万円あった貯金はすべて泡と消え、残ったのは疲労感と敗北感だけだったのだ。
さらに彼女を打ちのめしたのは、選挙期間中にばら撒かれたおびただしい数の「怪文書」だった。
「東京で大物政治家の愛人をしていた」
「隠し子がいる」
「経歴はすべて嘘だ」
事実無根のデマが、まるで真実かのように地元・奈良の有権者のポストに投函され続けたのだった。
それは、新参者の女性候補に対する、古い政治体質からの陰湿な「洗礼」だった。
悔しさと情けなさで、落選が決まった夜、早苗は一睡もできずに天井を見つめ続け、
「政治とは、ここまで人間を汚すものなのか」そう思いながらも、その思いを心の奥底に封印したのだった。
「国政選挙に2回続けて落ちれば、政治生命は終わる」それが永田町の常識だった。しかし、運命は彼女を休ませてはくれなかった。
翌1993年、宮澤内閣不信任案が可決され、いわゆる「嘘つき解散」による総選挙が急遽決定したのだ。高市早苗にとって、これはラストチャンスだったが、資金は底をつき、前回の敗北でスタッフも離れていた。
周囲からは「今回は見送れ」「無謀だ」と猛反対され、彼女自身も心が折れかけていたのだ。
「もう、諦めるしかないのか……」失意の中、彼女は奈良の実家へ戻ったのだった。
実家に戻った早苗が目にしたのは、台所のテーブルに置かれていた一通の手紙と通帳であった。
それは、これまで「銀行へ行け」「堅実な道を歩め」と、娘の政治家志望に誰よりも反対し続けてきた父・和大(かずお)氏からのものだった。
その通帳は、トヨタ系の企業で定年まで勤め上げた一介のサラリーマンが、老後のために蓄えた命綱であった。
世襲政治家のような盤石な地元の組織票という地盤もなければ、知名度という看板もない。
老後の資金を投げ打ってでも、娘の夢に賭ける。
それは、厳格な父が見せた、不器用で、しかしあまりにも大きな愛情であった。
手紙には、震える文字でこう書き綴られていた。
『お前は運を持って生まれた子だ。その運を信じて全力投球しろ。絶対に勝てる。ただし、どんなに苦しくても、握手とお辞儀だけは忘れるな』
涙が止まらなかった。
「親の老後を食いつぶしてまで挑む戦いに、負けるわけにはいかない」
父の退職金という重すぎる弾薬を背負い、高市早苗は再び立ち上がったのだ。もはや迷いはない。
早苗の瞳には、以前のような「知的なキャスター」の面影はなく、泥にまみれてでも勝ちに行く「政治家」の光が宿っていた。
1993年(平成5年)7月18日、第40回衆議院議員総選挙。奈良県全県区(定数5)は激戦地であった。
自民党の組織がフル稼働するライバルたちに対し、高市陣営は手作りの選挙戦。
しかし、彼女の必死の訴えは、既存の政治に飽き飽きしていた有権者の心を鷲掴みにしたのだった。
「しがらみのない政治を!」
父の想いを背負い、喉が潰れるまで叫び続けた彼女に、奈良県民は熱狂した。
開票速報が流れると、選挙事務所はどよめきに包まれた。結果は、まさかのトップ当選。獲得票数は13万1345票と、2位以下を大きく引き離す圧勝であった。
無所属の新人、それも女性候補が、自民党の重鎮たちを押しのけてトップに立つ。
それは、強固な保守王国・奈良において「奇跡」と呼ばれる快挙であった。
しかし歓喜も束の間、政治の冷酷な現実が彼女を襲った。
選挙前、党本部の一部とは「当選したら追加公認する。つまり自民党に入れる」。という密約があったとされるが、その約束は反故にされたのだ。
立ちはだかったのは、当時「奈良のドン」と呼ばれた自民党の超大物・奥野誠亮(せいすけ)氏の影響力であった。
地元の秩序を乱す「跳ねっ返り」の小娘を、長老たちは許さなかった。
「勝っても入れてもらえないのか」
かくして高市早苗は、13万票の民意を背負いながらも、
政党という後ろ盾のない「完全無所属」の野良犬として、国会という荒野へ放り出されることになったのだった。
奇しくも同じ1993年、山口1区でも一人の青年が初当選を果たしていた。
安倍晋三、当時38歳。祖父は「昭和の妖怪」岸信介元首相、父は外相を務めた安倍晋太郎。
まさに保守本流のプリンスであり、華麗なる政治家一族のサラブレッドであった。
亡き父の地盤を継ぎ、自民党公認で堂々のトップ当選を果たした安倍晋三。
それに対して、父の退職金を握りしめ、組織と戦い、無所属で這い上がってきた高市早苗。
「毛並みの良さ」と「雑草魂」。
境遇は正反対の二人であったが、二人は共に「55年体制の崩壊(自民党の下野)」という激動の時代に船出したのだった。
当時、言葉を交わす機会はほとんどなかったが、この対照的な二人が、やがて「国家観」という魂のレベルで共鳴し、
日本の運命を左右する最強のタッグを組むことになるとは、まだ誰も知る由もなかったのであった。
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