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横須賀どぶ板通り

横須賀どぶ板通り

横須賀中央駅からどぶ板通りあたりを徘徊してきました。
駅前の路地の飲み屋街は非常に賑わっています。
どこの駅前でも見る事の出来る光景です。
横須賀中央は旧大日本帝国海軍横須賀鎮守府の門前町として誕生し発展していきました。
戦後は京浜地区の急速な発展に伴い、横須賀市でも町並みが大きく変貌しました。
自衛隊や在日アメリカ軍が駐屯し、基地や関連施設が市内各地にあります。
街を歩けば自衛隊の方々とすれ違い、アメリカ兵も多く見る場所です。
駅周辺には多くの小売店や飲食店があり非常に賑わっています。
横須賀中央駅からどぶ板通りに向かうには、三笠ビル商店街(みかさびるしょうてんがい)を抜けるのがいいです。
三笠ビル商店街(みかさびるしょうてんがい)という名称は三笠 (戦艦)に由来し、名付け親は加藤寛治です。
三笠ビル商店街(みかさびるしょうてんがい)は全長180m程で4階建ての細長い三笠ビルに様々な店舗等が入居し商店街を形成しています。
横須賀中央駅から近く、人通りも多いみかさびるしょうてんがいは、様々なイベント等も開催され賑わいを見せています。
庶民が普段の買い物をする商店や、ミリタリーショップ、
アメリカ兵向けの不動産屋なども多いです。
この商店街は、三笠通りと呼ばれることもあります。それは主に三笠ビルの一階部分の街の商店が並ぶ、全長約180メートルの通路の事を指します。
ビルの中の通路なので雨風も関係なく、空調設備も整っており。天候に関係なく買い物ができます。
三笠ビルの商店街を通りどぶ板通りを目指します。
どぶ板通りと呼ばれる由来は、昔この通りの中央にどぶがわが流れていました。
しかし、人や車の通行の邪魔になるため、明治時代の終わりごろ、海軍工廠から厚い鉄板を提供してもらい、どぶ川に蓋をしたことから『どぶ板通り』と呼ばれるようになりました。
その後どぶがわも鉄板も撤去され、現在に至ります。
第二次大戦後は進駐軍や
在日アメリカ軍横須賀海軍施設の兵隊向けにスーベニアショップ(土産物店)、
肖像画店、
バーや飲食店、
テーラーショップなどがはんじょうしました。
暗い側面も持つ歓楽街でした。
当時は娼婦
(パンパン)
が街なかでアメリカ兵を誘う街でもありました。
彼女たちはそうしなければ生きていけない事情がありました。現在はそのような女性は見かけることはありません。
ベトナム戦争のころはアメリカ兵向けのバーや飲食店が繁盛していました。
主にどぶいたどおりで飲むのは白人のアメリカ兵で、黒人のアメリカ兵は汐入界隈で飲むことが多かったようです。
ベトナム戦争の頃のどぶいたどおりは活気に満ち、アメリカ兵相手の娼婦
(ぱんぱん)
たちも多く存在していました。
これはどぶいたどおりだからというわけではなく、おおくのアメリカ兵のいる横須賀全体がそうであったようです。
ドブいたどおりや横須賀の娼婦
(ぱんぱん)
たちは、連れ込みホテル、
更には人目につかないところならどこでも行為を行っい、商売をしたようです。
多くの娼婦
(ぱんぱん)
たちは戦争で家族を亡くし、
天涯孤独の身だったひとも多いでしょう。
家族と共に生きていく為に生きていく手段として娼婦
(ぱんぱん)
となったひとも多いでしょう。
それが先の大戦で日本が敗戦したゆえ、
日本国民が背負う事となった事実の一つです。
ここで怪しい路地を見つけました。
はいっていくことにします。
よくわからない怪しそうな店も点在します。
ビルの裏とおりのようです。
生活道路ではないようです。
ちょっとドキドキしています。
ここは抜けられるのでしょうか?
このようなとおりを歩いていると、どんなお店があるのだろうかと気になりますが、気になるお店を見つけても、なかなか、入る勇気はありません。
気持ち歩くのが速くなります。
ゆっくり見たいという気持ちより、早くここを通り抜けたい気持ちがあります。
駐車場です。
駐車場から、オモテ通りに抜ける事ができるようです。
無事、怪しいよくわからない場所から抜け出る事ができました。
さて、話の続きです。
娼婦
(パンパン)
達は性病を患いなくなった者たちもかなりのかずにのぼったようです。
彼女たちを買ったアメリカ兵は
(黒人)
はかなりの確率で性病を持っていたようです。
これは立石だったと思いますが、黒人専用の慰安場所で、性病が蔓延し廃止になったことからの筆者の想像です。
今からすれば、様々な悲惨な物語が当時は普通にあったことでしょう。
アメリカ兵はベトナムの戦地に行けば生きて帰ってこれるかどうかもわからない。
そんなアメリカ兵を相手に娼婦
(パンパン)
達は商売をしてその時代を生き残ってきたのです。
生きて帰って来れるかどうかわからないアメリカ兵は景気よく金を使い、それを娼婦たちは根こそぎ持っていきました。
その娼婦たちもほとんどが亡くなってしまっているでしょう。仮に生きていたとしても当時のことを口にする者はいません。
ベトナム戦争終了後はアメリカ兵も減り、街の活気も一時ほどではなくなったようです。
ベトナム戦争バブルといってもいいようなアメリカ兵による景気のいいおかねの使い方は、ベトナム戦争終了とともになくなりました。それは自然な事でしょう。
明日生きているかどうかわからないようなことがなくなり、無謀なおかねの使い方をしなくなった、いや出来なくなったのでしょう。
時は流れていきます。
2000年代にはアメリカ兵向けのお店が多かったですが、日本人若者向けのアパレルショップや美容院、
アクセサリーショップなどが増えました。
しかしまだまだアメリカ兵は多くいました。
2006年1月には、どぶ板通りで早朝出勤途中の日本人女性が、アメリカ兵に暴行を受け殺害され、さらに現金を奪われるという事件も起きています。
殺人事件だけでなく、酔っ払ったアメリカ兵が民家に侵入する事件は頻繁に起きています。
さらにアメリカ兵による日本人女性に対する事件は絶えません。2007年には16歳の少女が、19歳のアメリカ兵に刺されるという事件も起きています。
その事件は16歳の少女がアメリカ兵に誘われましたが、少女がアメリカ兵との関係を断ったために、アメリカ兵に刺されたという事件です。
幸い少女は逃げ、近くの人に助けを求め、致命傷を負わずに済んだようです。
多くの場合、事件を起こしたのはアメリカ兵としか報道されていませんが、ほとんど場合、
黒人兵によるもののようです。
人種差別の助長などと人権やからの批判を恐れてのことでしょうか。
現代でも事件報道の際、国籍を伏せている場合が多いです。その場合は大概まるまる人であることが多いように思います。
現在の、どぶ板通りは全長300メートルほどの通りに、昭和の面影を残すレトロ感のある飲食店が多く残っています。
海軍カレーやヨコスカネイビーバーガー
(ご当地バーガー)
などの店も立ち並んでいます。
また、スカジャンの発祥地として有名です。
ミリタリーショップなども観光客に人気があります。
どぶ板通りは、アメリカと日本の文化が融合した独特の雰囲気を持つ商店街で、横須賀を代表する観光地ともなっています。
どぶ板通りをスマホ片手に観光している人もいます。
横須賀に縁がある有名人の手形が通りの路面に埋め込まれたり、
週末にはフリーマーケットやストリートライブ、
パフォーマンスが開催されています。
年4回開催される『どぶ板バザール』は、
多くの人で賑わうイベントとなっています。
インバウンドの影響はあまりないようで、あまり混雑はなくアメリカ文化を肌に感じる事ができるどぶ板通りです。
さて、どぶ板通りに足を運んで日本の中のアメリカを感じてみましょう。