【現代羅睺羅の人生相談室】File.001
二十代の男。 不眠と心労が重なり、その頬は病的にこけ、顔色は土気色に沈んでいた。 指先は微かに震え、肉体はすでに限界を超えている。一見すれば、ただの敗残者、あるいは生ける屍にしか見えないだろう。
だが、その瞳を覗き込めば、印象は一変する。 虚ろな眼窩の奥底で、決して消えることのない異様な光が、ゆらりと揺らめいていたのだ。
それは希望といった健全な輝きではない。 「彼女を救済できるのは、この世界で自分ただ一人だ」――。 その妄執にも似た狂信的な使命感だけが、崩れかけた彼の精神を強引に繋ぎ止め、突き動かしていた。
相談者:
「……羅睺羅さん。 こんな話、笑いますよね。情けない男だと、軽蔑しますよね。 でも、もう俺、限界なんです。誰にも言えなくて……。
彼女は……壊れているんです。 ガラス細工みたいに繊細で、すぐにヒビが入る。 さっきまで猫みたいに甘えてきたかと思えば、次の瞬間には『私なんて生きてる価値がない』『どうせ体目当てなんでしょ』って、過呼吸になるほど泣き叫ぶ。 ホストに狂っていた過去も、パパ活で身体を売っていたことも、全部知っています。 それを聞くたび、心臓を雑巾で絞られるみたいに痛い。吐き気がするほど苦しい。
それでも、彼女は俺にだけ言うんです。 『あなたがいるから、私はまだ息ができる』って。 『あなただけは、汚れた私を見捨てないでいてくれる』って。
その言葉を聞くと、脳みそが痺れるんです。 気づけば、彼女の作った借金を肩代わりし、生活費を渡し、自分の貯金なんてとっくに底をつきました。 友達からは『お前は財布扱いされてるだけだ』『目を覚ませ』と散々言われました。もう、連絡をとる友達もいません。 職場でも、少しでもLINEの返信が遅れると彼女が自傷するんじゃないかと気が気じゃなくて……ミスばかりです。
頭では分かっているんです。 これが普通の『恋』じゃないことくらい。 自分がボロボロになって、泥沼に沈んでいく感覚もあります。 でも……俺が手を離したら、あの子は本当に死んでしまうかもしれない。 そう思うと、怖くてたまらないんです。 苦しいのに、離れることの方がもっと怖い。
ねえ、羅睺羅さん。 これは『愛』なんでしょうか。それとも、ただの『依存』なんでしょうか。 それでも俺は……心のどこかで信じたいんです。 『これが運命なんだ』『俺こそが、彼女を救うために選ばれた人間なんだ』って。
人を救おうとして、自分が壊れていくことは罪ですか? 地獄へ落ちる彼女と一緒に燃え尽きる覚悟を持つ俺は、ただの弱い人間ですか?
……もしあなたが、あのお釈迦様の教えを知る方なら教えてください。 俺のこの自己犠牲を、あなたの父上は……ブッダは、 『慈悲』と呼んでくれますか? それとも、『愚行』と笑いますか?」
羅睺羅(ラゴーラ)の回答:
「それは慈悲ではない。『共犯』という名の自慰行為だ」
……はっ、笑わせる。 お前は今、自分のそのボロボロの姿を「愛に殉じる聖職者」か何かだと思っているようだな。 「人を救おうとして壊れていく自分」に酔いしれているだけだ。
お前は聞いたな。「父上――釈尊なら、これを『慈悲』と呼ぶか」と。 答えを教えてやる。 父なら、静かに首を振り、こう断じるだろう。 「愚かなり(愚行)。自ら泥沼に入り、泥を飲んで『苦しい』と叫ぶ者よ」と。
俺は息子の羅睺羅だ。父より言葉は荒いが、もっと分かりやすく解剖してやる。 グラスを置け。そして、その充血した目を見開いて現実を見ろ。
「俺がいないと彼女は生きていけない」? 「俺が救う役目」? ……傲慢(ごうまん)もいい加減にしろ。 お前が金を出して借金を埋め、情緒不安定な彼女を慰めるたびに、彼女は何を学ぶと思う? 「ああ、私は今のままでいいんだ。泣き叫んで手首を切るふりをすれば、この男が全部処理してくれる」 そう学習しているだけだ。
お前がやっていることは救済じゃない。 彼女から「自分の足で立つ機会」を奪い、「無力な依存者」のまま飼い殺しにしているんだ。 それを仏教では「慈悲」とは呼ばない。「魔境(まきょう)」と呼ぶ。 お前は彼女を救いたいんじゃない。「誰かにすがりつかれる自分」を確認して、自分の空っぽな自尊心を満たしているだけだ。
お前はそれを「運命」だの「恋」だのと言葉を飾るが、診断結果はシンプルだ。 それは「渇愛(タンハー)」に基づくドーパミン中毒だ。
「あなたがいるから生きていける」という殺し文句。 それは、お前の「誰かに必要とされたい」という巨大な心の穴(欠乏感)に、ジャストフィットするピースだっただけだ。 彼女はお前を愛しているんじゃない。お前という「便利な生命維持装置」に執着しているだけだ。 そしてお前も、彼女という「自分を頼ってくれる壊れた人形」に執着している。 互いに相手を「モノ」として消費し合う関係……それを地獄と言わずして何と言う?
親父の古い教えに、こういうものがある。
「愛欲は松明(たいまつ)を持つが如し。風に逆らって走れば、必ず己の手を焼く」
今のお前を見ろ。 金は尽き、友を失い、仕事もままならない。 お前の手はもう黒焦げで、腐り落ちる寸前じゃないか。 それでもまだ、「これが愛の熱さだ」「俺が耐えればいい」と言って、その業火を握りしめ続けるのか? それは温もりじゃない。お前の人生が灰になっていく臭いだ。
「離れるのが怖い」と言ったな。 当たり前だ。手を離せば、彼女は地面に落ちて傷つくし、お前は「誰からも必要とされない孤独な男」に戻るからな。 だが、聞け。
本当に彼女を救いたいなら、突き放せ。 「もう金は出さない」「死にたいなら勝手にしろ」と告げて、LINEをブロックしろ。 彼女が泣き叫ぼうが、のたうち回ろうが、一切振り返るな。 彼女が底まで落ちて、自分自身の力で這い上がろうとする瞬間を奪うな。
それができないなら、お前は彼女と一緒に沈むだけだ。 「心中」なんて美しい言葉で飾るなよ。ただの「共倒れ」だ。
その腐った「救世主気取り」を今すぐ捨てろ。 お前ごときに、他人の人生は背負えない。自分の人生さえ満足に操縦できていないくせに、何を思い上がっている!
自分を救えない人間に、他人を救う資格などない。
今すぐこの店を出て、連絡先を消せ。 そして、一人で飯を食い、一人で震えて眠れ。 その孤独の苦しみだけが、お前を「依存」という病から更生させる唯一の薬だ。
……勘定は置いていけ。 二度と「被害者」の顔をして俺の前に現れるなよ。次は「一人の男」として来い。
男は何も言わなかった。
飲み干したグラスの横に、懐から取り出した三枚の一万円札を置く。 釣りはいらない、という意思表示だろうか。いや、それは単なる酒代ではない。これまで甘え腐っていた「過去の自分」への手切れ金であり、これから始まる孤独な闘いへの「覚悟の代償」のようにも見えた。
カラン、コロン……。 重厚な木の扉が開くと、乾いたドアベルの音が店内に響き、そして静寂が戻った。
店を一歩出ると、そこには深夜の雑踏があった。 ビルの隙間から吹き抜ける夜風は冷たく、火照った頬を容赦なく叩く。だが、その冷たさが心地よかった。 ネオンの明滅、客引きの低い声、どこからか聞こえるサイレン。 かつての彼なら、この喧騒の中に「寂しさを埋めてくれる誰か」を必死に探していただろう。 だが今、彼の目に映る街は、ただの「風景」だった。
ポケットの中で、スマホが一度だけ震えた気がした。 あの女からの「助けて」というメッセージか、それとも「愛してる」という呪いの言葉か。 男は一瞬立ち止まり、ポケットに手を伸ばしかけた。
しかし――。 彼はその手を握りしめ、スマホを取り出すことなく、再び歩き出した。
一歩、また一歩。 革靴がアスファルトを叩く音が、彼自身の鼓動と重なる。 足取りはまだ重い。背中には、引き剥がしたばかりの依存の傷跡が、幻肢痛のようにズキズキと疼いている。 恐怖がないと言えば嘘になる。この先に待っているのは、甘い麻酔のない、痛みに満ちた現実だ。
それでも、今の彼には確かな感覚があった。 誰かに背負われた人生ではない。 誰かに操縦された人生でもない。 「俺は今、俺の足で立っている」という、重力のある感覚だ。
男の心にかかっていた分厚い霧は、完全には晴れていない。 けれど、その視界の先には、頼りなくとも確かな、自分だけの道が微かに白く浮かび上がっていた。
羅睺羅のいるバーの看板が、背後で静かに消灯した。 男は一度も振り返ることなく、夜の闇の中へ――しかし今度は「迷い子」としてではなく、「一人の男」として溶けていった。
『犀(さい)の角のようにただ独り歩め』
その背中は、ほんの少しだけ、大きく見えた。





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