【現代羅睺羅の人生相談室】File.002
三十代の会社員。 着慣れたスーツはどこかヨレており、その風貌は慢性的な過重労働を如実に物語っていた。
血の気を失った顔色は青白く、目の下には、洗っても落ちない汚泥のような濃い隈(くま)が刻み込まれている。 全身から生気が抜け落ち、今にもその場に崩れ落ちそうなほど消耗していた。
だが、その右手だけが異様だった。 彼はスマートフォンを握りしめていた。指の関節が白く浮き上がり、筐体が軋むほどの猛烈な力で。 まるで、その小さな画面の向こう側に、自身の人生を左右する「決定的な何か」が存在しているかのように、彼はそれを離そうとしなかった。
相談者:
「……羅睺羅さん、とお呼びしていいですか。 もう、誰に相談しても『お前がバカなだけ』『いい加減目を覚ませ』と呆れられるばかりで……ここが最後の砦だと思って来ました。
正直に言います。俺、何度も繰り返してるんです。 キャバ嬢とか、SNSでキラキラしてるインフルエンサーとか……いわゆる『高嶺の花』に入れ込んでは、ボロボロになることを。
最初は、本当に女神みたいに優しいんです。 『吉岡さんだけは特別』 『他の男の人は体の関係ばかりだけど、あなたは私の内面を見てくれる』 ……そんな言葉を耳元で囁かれると、自分だけが彼女の理解者になれたような気がして、救われた気持ちになるんです。
気づけば、定期預金は解約し、消費者金融のカードが増え、仕事中も彼女の返信ばかり気にしてミスを連発している。 頭の片隅では、分かってるんですよ。 これは営業トークだ、俺はただの『太客』だ、利用されているだけだって。理屈では分かっているんです。
でも、いざ突き放そうとすると、彼女は泣き崩れるんです。 『信じてたのに』『あなたがいないと私、どうなるか分からない』って。 情緒不安定で、リストカットの痕を見せられたり、深夜に『死にたい』と電話がきたりすると……『俺が見捨てたら、こいつは本当に壊れてしまうんじゃないか』って、足が止まるんです。
周りは言いますよ。『自業自得だ』『女を見る目がない』って。 でも……俺は、本当に俺だけが悪いんでしょうか? あんな風に、人の寂しさに漬け込んで、期待を持たせて、心も金も奪っていく。 あれは……人の皮を被った『悪魔』なんじゃないですか? 俺は騙された被害者なんじゃないですか?
最近はもう、夜も動悸がして眠れません。 『もう全部終わりにしたい』と、駅のホームでふらつきそうになることもあります。 それなのに……手が震えながらも、彼女のインスタのストーリーを確認してしまう。LINEの通知音が鳴ると、パブロフの犬みたいに反応してしまう。自分が壊れていくのが分かるのに、止められないんです。
羅睺羅さん、教えてください。 俺はただの弱い男なんでしょうか。それとも、魔物に魅入られた被害者なんでしょうか。 どうすれば、この地獄の回転木馬から降りられるんですか。
……あなたの父上――お釈迦様なら、俺みたいな救いようのない愚か者を、どう見るんでしょうか。」
回答者: 羅睺羅(ラーフラ)
羅睺羅の回答:「父なら『火宅』と呼ぶだろう。だが俺は『共犯』と呼ぶ」
……ふん。最後まで聞き苦しい懺悔だったな。 お前は最後に聞いたな。「父上――釈尊なら、俺をどう見るか」と。
答えてやる。 父なら、慈悲深い顔でこう言うだろう。 「愚か者よ。お前は今、燃え盛る家(火宅)の中で、火の粉を浴びながら『熱い、熱い』と泣き叫んで遊んでいる子供と同じだ」と。
だが、俺は羅睺羅だ。父ほど甘くない。 俺の目には、お前は「被害者」には見えん。 お前は、その怪物を肥え太らせた「筆頭株主」であり、「共犯者」だ。
その腐りきった性根、俺がメスを入れて切り刻んでやる。
「騙された」「搾取された」「彼女は悪魔だ」。 笑わせるな。お前は心の奥底で分かっていたはずだ。 それが「営業」であり、「演技」であることを。
それでもなぜ、金と時間を差し出した? 「気持ちよかったから」だ。 「あなただけが特別」という安っぽい麻酔を打たれ、現実社会では得られない万能感に浸りたかっただけだ。 お前は騙されたんじゃない。「自尊心」という商品を、金で買っていたんだよ。 合意の上での取引だ。いまさら被害者面をして、自分の愚かさを正当化するな。
「彼女は情緒不安定だ」「俺が見捨てたら壊れてしまう」。
……ハッ! これが最も醜い勘違いだ。 いいか、よく聞け。 彼女はお前がいなくなっても死なない。壊れもしない。 すぐに「次の代わりの宿主」を見つけて、同じセリフで泣きつくだけだ。
お前は彼女を心配しているふりをして、実は「誰かに命綱を握られている自分」に酔っているだけだ。 「自分は必要とされている」という快楽のために、彼女の不幸を利用しているのは、どっちだ? お前もまた、彼女を食い物にしているのだ。その事実に気づけ。
3. それは愛ではない。脳が焼かれた「中毒症状」だ
動悸がする、眠れない、スマホを見てしまう。 それは恋煩いではない。「禁断症状」だ。 アルコール依存症の患者が、震える手で酒を探すのと何ら変わらん。
お前の魂は、「渇愛(かつあい)」――喉が裂けるほどの承認欲求の渇きに支配されている。 その女は、お前に塩水を飲ませ続けていただけだ。飲めば飲むほど渇き、死に至るまで求め続ける。 それを「地獄」と呼ぶなら、その地獄の門を開けたのは、他ならぬお前自身だ。
父・釈尊は言った。「サイの角のようにただ独り歩め」と。 群れるな。媚びるな。すがるな。 だが、今の堕落しきったお前に、いきなり「独りで立て」と言っても無理だろう。
だから、俺が具体的な処方箋をやる。 「腕を切り落としてでも、鎖を断て」
スマホを解約しろ。物理的に連絡手段を絶て。 引っ越せ。環境を変えろ。 その夜、お前は孤独と禁断症状でのたうち回り、血の涙を流すだろう。 「寂しい」「死にたい」と泣き叫ぶことになるだろう。
だが、それでいい。 その苦しみこそが、お前が人間性を回復するための「好転反応」だ。 その痛みから逃げるな。痛みだけが、お前が生きて現実に戻ってきた証拠だ。
聞け、彷徨える男よ。 お前は弱くなんかない。「弱いふりをして、楽をしようとした」だけだ。 自分を被害者に仕立て上げれば、決断しなくて済むからな。
今ここで、その甘えを殺せ。 悪魔はいない。お前の「心の穴」が作り出した幻影だ。 幻影を振り払い、泥水をすすってでも、自分の足で現実の大地を踏みしめろ。
……話は以上だ。 二度と「被害者」の顔をして俺の前に立つな。 次は「一人の男」として、顔を上げて来い。
男は何も言わなかった。
ただ、飲み干したグラスをコースターに戻すと、その横に懐から取り出した三枚の万札を、音もなく並べた。 釣りはいらない、という意思表示だろうか。いや、それは酒代というよりも、腐りかけた己の魂を切り離すための、安すぎるほどの「手付金」のようにも見えた。
重厚な扉が開き、そして閉まる。 カラン、コロン……。 チープなドアベルの音が、彼と羅睺羅の間に、決定的な境界線を引いた。
店を一歩出ると、そこには深夜の雑踏があった。 ネオンの明滅。客引きの卑しい声。どこからか流れてくる安っぽい流行歌。 かつての彼なら、この煌(きら)めきの中に「救い」を探していただろう。孤独を埋めてくれる誰かが、この光の向こうにいると信じていただろう。
だが今、彼の目に映る街は、ただの無機質なコンクリートと電気信号の塊に過ぎなかった。 頬を撫でる夜風は冷たく、火照った頭を容赦なく冷やしていく。 その冷たさが、心地よかった。 「ああ、俺は今、一人なんだ」 その事実は、以前のような鋭利な恐怖ではなく、どこか静謐(せいひつ)な事実として、彼の胸に落ちてきた。
男は歩き出した。 スマホはポケットの奥底に沈んだままだ。通知の振動が一度だけ震えた気がしたが、彼はそれを取り出さなかった。
一歩、また一歩。 革靴がアスファルトを叩く音が、やけに鮮明に響く。 足取りはまだ重い。背中には、断ち切ったばかりの未練が、幻肢痛のようにズキズキと疼いている。 それでも、その足はもう、誰かの待つマンションへ向かう惰性の足ではなかった。
彼自身の意思で、彼自身の家へと帰る。 ただそれだけのことが、なぜこれほどまでに厳かで、重みのある行為なのか。
男の心にかかっていた分厚い霧は、完全には晴れていない。 だが、その視界の先には、頼りなくとも確かな、自分だけの道が微かに白く浮かび上がっていた。
羅睺羅のいるバーの看板が、背後で静かに消灯した。 男は一度も振り返ることなく、夜の闇の中へ、一人の人間として溶けていった。








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