【現代羅睺羅の人生相談室】File.004
―――深夜の駅前ロータリー。 終電が去り、静寂を取り戻した街で、客待ちのタクシーが吐き出す赤いテールランプだけが、不規則に明滅している。
ガードレールに重たい身体を預ける男が一人。 二十代後半。本来なら野心や活力に満ちているはずのその相貌は、土気色に沈んでいる。 指先に力なく引っかけた缶コーヒーは、未開封のまま、とっくに冷めきっていた。
彼の視点は定まらない。 目の前の景色を見ているのではなく、脳裏にこびりついた「誰かの面影」に囚われているようだ。
疲労困憊――。 だが、その肩にのしかかっているのは、仕事の疲れではない。 「愛」という名の、あまりに甘美で、逃れることのできない「呪い」が、彼の心身を内側から食い荒らし、枯渇させているのだ。
相談者:
「……羅睺羅さん。 もう、何度目か分からないんです。 『今度こそ終わらせる』と誓って、LINEもブロックして、写真も全部消して…… それなのに、気づけばまた、あの人の部屋にいる。
彼女は……人を狂わせる天才なんです。 氷のように突き放されたかと思えば、次の瞬間には、捨てられた子犬みたいな目で僕を見てくる。 『やっぱり、私にはあなたしかいない』 そのたった一言で、僕の決意なんて砂の城みたいに崩れ去る。脳みそが真っ白になって、全部許してしまうんです。
友達にも、親にも言われました。 『あの女はやめとけ』『お前が壊れるだけだ』って。 そんなこと、僕が一番分かってる。 一緒にいると動悸がするし、仕事中も不安で手につかない。自分が自分でなくなっていくのが分かる。
それでも……抗えないんです。 彼女の声、匂い、肌の感触。 離れている時間は地獄なのに、彼女の腕に戻ったあの一瞬だけ、世界中のすべてが報われたような錯覚に陥る。 まるで、猛毒を『薬』だと思い込んで飲み続けているみたいに。
別れ話を切り出すたびに、彼女は言うんです。 『あなたがいないなら、私、どうなってもいい』 『私が死んだら、あなたのせいだからね』 その言葉を聞くと、足がすくむ。 もし本当に彼女が何かしたら――その十字架を、僕は一生背負わなきゃいけない。その恐怖が、僕を縛り付ける鎖になる。
正直に言います。僕は弱いです。卑怯です。 でも、それだけじゃない。 彼女には、人の理性を溶かして、正常な判断を奪う『魔力』がある。 そう思わないと、やってられないんです。
羅睺羅さん、教えてください。 本人が無自覚に人を振り回し、廃人にさせるその魅力は、罪にはならないんですか? それとも……『抗えない』と言い訳して、その刺激に縋り付いている僕の方が、本当は一番の悪人なんでしょうか。
何度も壊れて、何度も戻ってしまうこの地獄を、 僕は『腐れ縁』とか『運命』なんて言葉で美化してしまう。
……あなたの父上――ブッダなら、 身体の一部みたいに癒着してしまったこの執着を、 どうやって切り落とせと説くんでしょうか。」
羅睺羅の回答:
「それは愛ではない。『魂の自殺』だ」
……おい、その手の中の潰れた紙コップを見ろ。 中身はもう空だ。なのに、いつまでも握りしめている。 お前のやっていることはそれと同じだ。
「彼女の魅力に抗えない」だと? 「分かっているのに体が動いてしまう」だと? ……ふん、見苦しい言い訳をするな。 お前がやっていることは、「ドクロのマークがついた瓶を、致死毒だと知りながらラッパ飲みしている」のと同じだ。 それを「彼女が無理やり飲ませた」と言うのか? 違うな。お前が自分で蓋を開け、自分で喉に流し込んだんだ。
今日はその腐った根性の奥底にある病巣、「渇愛(かつあい)」について教えてやる。 その寒空の下で、耳の穴をかっぽじってよく聞け。
お前は彼女を「心を操る天才」か「強盗」のように思っているようだが、勘違いも甚だしい。 彼女は力ずくでお前の心のドアをこじ開けたんじゃない。 お前の心が穴だらけだから、そこからゴキブリのように侵入しただけだ。
孤独、将来への不安、誰かに認められたいという焦り。 「誰かに選ばれたい」「僕を見てくれ」と泣き叫ぶその惨めな叫び――親父(釈尊)はこれを「渇愛(タンハー)」と呼んだ。
お前は彼女を愛しているんじゃない。喉が焼けるほど「承認」に渇いているだけだ。 泥水でもいいから潤してくれと懇願している、ただの「愛の乞食(餓鬼)」になり下がっているんだよ。 だから、「やっぱりあなたしかいない」という安っぽい餌を投げられると、尻尾を振って飛びつくのだ。
お前は「離れている間は地獄、戻れば報われる」と言ったな。 目をこすって現実を見ろ。それは幸せではない。「禁断症状の緩和」だ。
真の愛とは、お前の背骨を伸ばし、自由にする「翼」のようなものだ。 だが、今のお前はどうだ? 骨を抜かれ、判断力を奪われ、自分の価値さえも彼女の機嫌一つで乱高下する。 その姿のどこに人間の尊厳がある? それは愛ではない。「魂の自殺」だ。お前は生きながらにして、自分という人間を殺し続けているんだ。
「私どうなってもいいの?」という脅し文句に屈する理由。 それも残酷なほど単純だ。
「独りぼっちになる恐怖」が、「奴隷として扱われる屈辱」に勝っているからだ。
「誰にも相手にされないくらいなら、自分を振り回すような女でも、そばにいてくれる方がマシだ」。 心の底でそう思っているんだろう? お前は、自由な孤独よりも、首輪をつけられた不幸を選んだ臆病者だ。 その「弱さ」こそが、彼女という魔物をここまで肥え太らせた最大の肥料なんだよ。
釈迦の息子として、ここに雷(いかずち)を落とす。 魔性の女に近づくな。だが、それ以上に命じる。 魔性を呼び寄せる、その「物乞いのような心」を捨てろ!
自分の心の穴を、女で埋めようとするな。 その穴を自分で塞がない限り、魔は何度でも現れるぞ。 次はもっと巧妙に顔を変え、声を変え、お前を骨の髄までしゃぶり尽くすだろう。
いいか、これは慰めではない。お前の頬を張り飛ばして目を覚まさせるための痛打だ。 逃げるな。孤独から目を背けるな。 「誰かに選ばれたい」という浅ましい渇きのために、魂を切り売りするのはもうやめろ。
破滅へ向かって全力疾走するのは、今ここで終わりにしろ。 始発までまだ時間はあるな? その間に連絡先をすべて消せ。画像も消せ。思い出もゴミ箱へ入れろ。 足が震えてもいい。独りで立つ覚悟を決めろ!
深夜の駅前ロータリー。 人の波はとうに引き、タクシーの赤いテールランプだけが、不自然なほど長く伸びていた。
男はその列の最後尾にも並べず、歩道の縁石に亡霊のように立ち尽くしている。 右手には、いつ買ったのかさえ忘れてしまった缶コーヒー。 スチール缶の感触は、もう自分の体温よりずっと冷たかった。
「相談料、三万円だ」
鼓膜の奥に、あの低い声がこびりついている。 怒鳴るわけでも、諭すわけでもない。ただの事務的な事実として告げられたその言葉。 拒否する理由はいくらでもあった。だが、男は何も言えなかった。
駅前のコンビニ。 深夜のATMの青白い光が、男の顔を照らし出していた。 画面に映る自分の顔は、ひどく血の気がなく、まるで他人のように見えた。 暗証番号を押す指先が、微かに震える。 機械が紙幣を数える乾いた音が響き、吐き出された三枚の諭吉。 ――また、差し出すのか。 ――また、金で解決しようとするのか。 それは彼にとって、あまりにも見慣れた、そして忌むべき「儀式」だった。
戻ったとき、羅睺羅はすでに歩き出していた。 受け取った金を確認すらせず、ポケットにねじ込み、一度も振り返らない。 「頑張れ」とも「しっかりしろ」とも言わない。 ただ、夜の闇に溶けるように消えていった。
誰も彼を迎えに来ない。 誰も、彼がここに置き去りにされたことを気に留めない。
男は缶コーヒーのプルタブに指をかけようとして、やめた。 どうせ苦いだけだ。今の自分には、その苦ささえ味わう資格がない気がした。
「……また、だな」
車の走行音にかき消されるほどの小さな声で、男は呟いた。 誰かに振り回され、誰かに答えを求め、最後には金と虚しさだけが残る。 キャバ嬢に払った酒代。彼女に渡した生活費。そして今、羅睺羅に払った相談料。
だが、男はふと気づく。 三万円を失った惜しさよりも、「払うことを自分で選んだ」という事実の方が、鉛のように重く胸に残っていることに。 それは、これまでのような「搾取」とは、何かが決定的に違っていた。
タクシーの列が少し進む。 それでも、彼の番は来ない。帰る場所へ向かう車は、自分で止めなければならないのだ。
男は冷え切った缶コーヒーを足元に置いた。 カツン、と乾いた音がコンクリートに響く。 両手をコートのポケットに深く突っ込み、白く濁った息を吐き出す。 夜の冷気が、肺の奥まで鋭く刺さった。
――誰かの言葉で救われる夜は、もう終わった。
そう認めた瞬間、騒がしいはずのロータリーの音が、遠のいた気がした。 胸の奥に、奇妙な静寂が広がる。 寒さは厳しい。孤独は痛い。 だが、その冷たい風の中で、彼はようやく「自分の足」で立っている感覚を噛み締めていた。
【File.004】





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