【現代羅睺羅の人生相談室】File.005
――深夜のカフェ。 終電が過ぎ去り、都市が短い眠りについた店内は、しんと静まり返っていた。 湿ったガラス窓の向こうでは、行き場を失ったネオンの光が、ぼんやりと滲んで揺れている。
向かいの席に座る相談者の女は、さっきからずっと、冷めきったコーヒーカップの縁をスプーンで弄んでいた。 カチリ、カチリ。 その乾いた硬質な音だけが、深夜特有の重たい沈黙の間に、規則的に響いている。
彼女は、ひどく疲弊していた。 深い溜息をつくたびに、その華奢な肩から生気が削げ落ちていくようだ。これ以上、一歩も動けないといった風情で俯いている。
だが、垂れた前髪の隙間から覗く、その瞳だけは異質だった。 肉体の限界とは裏腹に、眼球の奥底では、彼女をここまで消耗させた元凶である「熱狂」への断ちがたい未練が、まるで消し炭の中の種火のように、赤黒く燻(くすぶ)り続けていた。
相談者: 20代女性。メイクは少し崩れ、目の下にはクマがある。カフェインのせいか、それとも焦燥感のせいか、指先が落ち着きなく動いている。
「……羅睺羅さん。 私、もう限界なんです。鏡を見なくても分かります。今の私、ひどい顔をしてますよね。 なのに……彼と別れられないんです。
今の彼とは、毎日が戦争です。 ほんの些細な言葉尻を捕まえて火がついて、LINEは既読無視、深夜に怒鳴り合いの電話、泣いて、責めて、謝って……。 正直、身も心もすり減っています。
それでも……彼と喧嘩して、感情をぶつけ合っている時だけ、『私、生きてる』って感じるんです。 心臓が痛いくらい脈打って、全身の血が駆け巡るあの感覚。 穏やかで優しい人と付き合ったこともあります。でも、安心はするけど、どこか退屈で……まるでぬるま湯に浸かって、ゆっくり腐っていくような気がして怖くなるんです。 『このまま何も起きない人生でいいの?』って。
友達には呆れられます。 『それは情熱じゃない、ただの共依存だ』『刺激中毒だよ』って。 頭では分かってるんです。 でも、私は思うんです。こんなに本気で感情を剥き出しにできる相手、他にいないんじゃないかって。
彼は、狡いんです。 散々私を傷つけたあと、急に子供みたいに抱きしめてきて、言うんです。 『俺にはお前じゃなきゃダメなんだ』 『お前だけが、俺を分かってくれる』 ……その一言を聞いた瞬間、それまでの地獄が全部ひっくり返って、救われたような錯覚に陥る。 その『一瞬の快楽』のために、私はまた傷つく準備をしてしまう。
でも……最近は、仲直りしても、前みたいに安らげなくなってきました。 『どうせまたすぐ壊れる』。そんな予感が、消えないんです。
羅睺羅さん、教えてください。 平和な幸せを『退屈』と感じてしまう私は、どこか壊れているんでしょうか。 私が彼に感じているこの激しい思いは、愛なんでしょうか。それとも、ただ刺激に飢えているだけなんでしょうか。
燃えるような情熱と、身を焦がすだけの自傷行為。 その二つの違いを、私はどうやって見分ければいいんですか。
……もしあなたが、あのお釈迦様の教えを受け継ぐ人なら、 この胸をかき乱す『ざわつき』のことを、本当は何と呼ぶのか、教えてほしいんです。」
羅睺羅の回答:
「その『ドキドキ』は恋じゃない。不整脈だ」
「彼といると心臓が痛いくらい脈打つ」「生きている感じがする」……か。 呆れたものだ。お前はそれを「情熱的な愛」と呼んでいるようだが、診断結果は真逆だぞ。
それは愛ではない。ただの「自滅への発火現象」だ。 医学的に言えば「不整脈」。心理学的に言えば「共依存」。 そして仏教的に言えば――「修羅(しゅら)の道」だ。
お前は聞いたな。「父上――釈尊なら、この胸のざわつきをどう呼ぶか」と。 答えを教えてやる。 父なら、悲しげな目でこう言うだろう。 「それは愛ではない。『業火(ごうか)』である」と。
今日はお前のその「刺激中毒」で腐った脳みそを、俺が強制的に解毒してやる。
お前らが「ドラマチック」と呼んで崇めているその関係、それは「火事」だ。 激しく燃え上がり、一時の熱狂(ハイ)を与え、生きている実感を感じさせるだろう。だが、その代償はなんだ? 身を焦がし、精神を炭にし、最後は灰になって捨てられるだけだ。 お前はそれを「情熱」と呼ぶが、違うな。それは「ジェットコースターに乗って絶叫しているだけの恐怖」だ。
一方、真の愛とは、「日溜まり」のようなものだ。 そこには「昨日は無視されたのに今日は抱きしめられた!」みたいな劇的な演出もなければ、心揺さぶる駆け引きもない。 ただ静かに、お前を生かし、育てる光だ。 刺激中毒(ジャンキー)のお前は、それを「退屈」と蔑むか? 笑止! その「退屈」の中にこそ、永遠の安息があることにまだ気づかんのか。
「穏やかじゃ物足りない」と言ったな。 なら聞くが、その相手と一緒にいる時、お前の魂は深呼吸できているか? それとも、「これを言ったらまた怒鳴られるかも」「機嫌を損ねないようにしなきゃ」と、常に怯えているか?
「嫌われたくない」と震えながら送るLINE、それはラブレターじゃない。暴君への「上奏文」だ。 愛に緊張など要らん。愛に試験などない。 常に試され、合格点を出し続けなければ捨てられる関係など、今すぐゴミ箱へ放り込め!
彼が優しい時に言う「お前が必要だ」なんて言葉に惑わされるな。そんなものは、DV男が殴ったあとに塗る安っぽい軟膏と同じだ。 真実は「沈黙」の中にこそ、残酷なまでに現れる。
喧嘩が終わったあと、二人の間に漂う空気はなんだ? ふっと肩の力が抜けるような「安らぎ」か? それとも、次の爆発までのカウントダウンが聞こえるような「窒息しそうな重圧」か?
もし、沈黙が怖くて、心臓が休まらないと感じるなら、それが答えだ。 お前の直感(センサー)はとっくに悲鳴を上げている。「ここから逃げろ」とな。 それを「気のせいだ」「彼も疲れているだけ」と理屈で捻じ伏せるな! 直感を裏切ることは、お前自身を裏切ることだ。
お前をすり減らし、疲れさせるものを「愛」と呼ぶ、その愚かな幻想を断ち切れ!
真の光は、目を凝らさずとも温かい。 お前が今いる場所は、愛の園ではない。ただの「戦場」だ。 戦場から撤退しろ。それは敗走ではない。 それこそが、お前の人生を取り戻すための、唯一にして最大の勝利だ!
……まだそこに突っ立っているのか? さっさと家に帰って、スマホの電源を切り、泥のように眠れ。 本当の幸せとは、「目が覚めた時、胃が痛くないこと」だと知れ。
深夜のカフェは、すでに微睡(まどろ)みの底に沈んでいた。 客の姿は疎らで、天井のスピーカーから流れるジャズも、意識の縁(ふち)で鳴る耳鳴りのように頼りない。
羅睺羅は、空になったカップをソーサーに戻すと、情熱の余韻など微塵もない事務的な声で言った。 「相談料は三万円だ」
女の指が止まった。 財布を開き、中身を確かめる。革の擦れる音と、小銭がぶつかる金属音だけが、静寂の中で不必要に大きく響いた。 「……そんなに、ないです」 喉が張り付き、絞り出した声は掠れていた。
「いくらならある」 問いかけに、感情の色はない。ただ数字を求めているだけの冷徹な響き。 「二万円……です」
羅睺羅は少しだけ間を置き、呆れたように、あるいは諦めたように、短く鼻を鳴らした。 「仕方ない。今回は特別だ」 女は安堵と罪悪感が入り混じった手つきで、二枚の紙幣を差し出した。 羅睺羅はそれを無造作に懐へ入れると、すぐに立ち上がる。
「ただし――ここの勘定は、お前が持て」
言い捨てるなり、彼はコートを翻して出口へと向かった。 ガラス扉が開くと、鋭い夜気が足元を掠める。 彼という劇薬は、ネオンが滲む夜の街へ、あっけなく溶けて消えた。
女は、広いテーブルに一人、取り残された。 向かいの席には、飲みかけの冷めたカップと、重たい沈黙だけが座っている。 遠くで、店員が食器を重ねる硬質な音がした。
時計を見る気力も起きない。視線は行き場を失い、空中に漂うだけだ。
――また、だ。
胸の奥に、鉛のような塊が沈んでいく。 求めていた劇的な救いも、燃えるような情熱も、ここにはなかった。 残ったのは、財布から消えた二万円と、逃げ場のない静けさだけ。
女は椅子の背もたれに深く体を預け、ゆっくりと瞼を閉じた。 カフェの照明は、まだ明るい。 けれど、もう今夜は、誰かが「答え」を運んでくることはないのだと、痛いほど理解していた。
【File.005】










コメント