【現代羅睺羅の人生相談室】File.006
―――夜更け。 終電が全ての喧騒を運び去り、深い静寂だけが残された駅裏の小さな公園。
冷え切った空気の中、一本の水銀灯が投げかける無機質な白い光が、ベンチに座り込んだ女の姿を残酷なまでに鮮明に浮かび上がらせていた。
女の頭の中では、冷徹な理性が警鐘を鳴らし続けている。今の自分が陥っている状況が、いかに異常で、破滅的であるかを理解しているからだ。ここで引き返さなければ、取り返しがつかなくなることも。
だが、彼女の肉体は、その警告を嘲笑うかのように疼いていた。 脳髄を直接ジリジリと焦がすような、あの強烈な刺激への渇望。 その甘美で破壊的な中毒症状の前では、どんなまともな理屈も瞬く間に焼き尽くされてしまう。彼女は、その熱に浮かされたまま、白い光の中で立ち尽くすことしかできなかった。
相談者: 20代女性。一見華やかだが、指先は震え、目の奥には焦燥と疲労が張り付いている。
「……羅睺羅さん。 私、もうボロボロなはずなんです。鏡を見れば分かります。 毎晩のように彼と怒鳴り合って、泣き腫らして、またすがりついて……。 普通なら、とっくに逃げ出しているはずなんです。
でも……今の彼といる時だけなんです。私が『生きている』って実感できるのは。 心臓が早鐘を打って、感情がジェットコースターみたいに揺さぶられて、血管の中を熱いものが駆け巡る。 あの感覚を知ってしまうと、穏やかで優しいだけの人なんて、退屈で……まるで死んでいるみたいに感じてしまうんです。
友達には呆れられます。 『それは愛じゃない、ただの共依存だ』『脳が麻痺してるだけだ』って。 頭では分かってるんです。 でも、思うんです。こんなに魂を削り合って、本気でぶつかり合える相手なんて、もう二度と現れないんじゃないかって。
彼は、狡いんです。 散々私を傷つけたあと、急に雨に濡れた子犬みたいな目で、抱きしめてくる。 『俺にはお前じゃなきゃダメなんだ』 その一言を聞いた瞬間、それまでの地獄が全部ひっくり返って、世界で一番幸せな女になったような錯覚に陥る。 その『一瞬の救い』のために、私はまた傷つく準備をしてしまうんです。
でも……最近は、仲直りしても、指先が冷たいままなんです。 『どうせまたすぐ壊れる』。そんな予感が、心臓の裏側にへばりついて離れない。
羅睺羅さん、教えてください。 穏やかな幸せを『退屈』と切り捨ててしまう私は、どこか欠陥品なんでしょうか。 私が彼に感じているこの激しい痛みは、情熱なんでしょうか。それとも、ただの自傷行為なんでしょうか。
燃えるような愛と、身を滅ぼすだけの執着。 その境界線を、私はどうやって見分ければいいんですか。
……もしあなたが、あのお釈迦様の教えを受け継ぐ人なら、 この胸をえぐるような『ざわつき』のことを、本当は何と呼ぶのか、教えてほしいんです。」
羅睺羅の回答:
「苦しさを『愛』と呼ぶな。それはまだ、自分を愛せていない証だ」
羅睺羅は、しばらくの間、黙って彼女を見つめていた。 それは責めるような視線ではない。かといって、安易な慰めを与える目でもない。 ただ、彼女が作り上げた「情熱」という名の言い訳を、音もなく剥がしていくような、逃げ場のない静寂だった。
やがて、彼はグラスを置き、低く、しかしよく通る声で言った。
「……まず、はっきり言おう」 「それは情熱ではない。毒だ」
彼女の指が、膝の上でビクリと跳ねる。羅睺羅は構わず続けた。
「胸がざわつく。感情が乱高下する。 それを『生きている実感』と呼ぶ人間は多い。 だが、父――釈尊は、それを『渇愛(かつあい)』と呼んだ」
「喉が渇いている者が、海水を飲むようなものだ。 飲んだ瞬間は強烈な味がして、潤った気がするだろう。 だが、飲めば飲むほど身体から水分は奪われ、渇きは増していく。 お前が『愛』だと思っているものは、その『もっとくれ、もっと苦しめてくれ』という禁断症状に過ぎない」
「穏やかな人が物足りない」と言ったな。 違う。 お前は、「穏やかさに耐えられない」だけだ。
「喧嘩があるから関係が『濃い』と錯覚し、痛いから『本物』だと信じ込む。 それは、燃え盛る炎の中に手を突っ込んで、皮膚が焦げる匂いを嗅ぎながら『熱い、痛い、だから私は生きている!』と叫んでいるのと同じだ。 ……狂気だと思わないか?」
嵐の中に長く居すぎた人間は、静けさを「死」のように感じる。 だがそれは、お前の感覚機能がバグを起こしているだけだ。退屈なのではない。平和なのだ。
「父は言った。『愛とは、相手を縛ることではない』と。 そして俺は付け加えよう。 『愛ことは、相手を不安にさせないことだ』」
「もしその関係が、
常に相手の顔色を読み、
嫌われる恐怖で自分の言葉を飲み込み、
いつ壊れるかという予感を抱えたまま眠る ……そんなものなら、それは断じて愛ではない。ただの『隷属(れいぞく)』だ」
彼女が何か言いかけたのを、羅睺羅は手で制した。 その瞳の色が、わずかに――本当にわずかにだが、柔らいだ。
「だが――お前を責めているわけではない。 人は皆、強い刺激を『生』と誤解する時期がある。 若さゆえの迷いだ」
羅睺羅は、彼女の目をまっすぐに見据えた。
「お前が本当に求めているのは、心臓を叩くような情熱ではない。 『ここで息をしていてもいい』という、安全な場所だ。」
「そこには、花火のような高揚はないかもしれない。 だが、夜中にスマホを握りしめて飛び起きることも、胃が痛むこともない」
最後に、彼は静かに、だが重く告げた。
「今すぐ去れ、とは言わない。 だが、その男の隣にいる時、自分自身に問え」
「この関係は、私に『明日も生きたい』と思わせるか? それとも、『今日をどうにか耐えさせる』だけか?」
「父なら、こう言うだろう。 苦しさを愛と呼ぶな。 それは、お前がまだ『自分自身を愛せていない証拠』だ」
沈黙が落ちる。 だがそれは、冷たい拒絶の沈黙ではなかった。 彼女が自分で考え、自分で選ぶための、厳しくも優しい「余白」だった。
「……選ぶのは、お前だ。 だが、『壊れない選択肢』がお前の目の前にあることだけは、忘れるな」
深夜のベンチに、女は一人、座ったまま動けずにいた。 頭上の街灯が落とす白い光が、彼女の影をアスファルトの上に不自然なほど長く引き伸ばしている。
「相談料は三万円だ」
そう告げた羅睺羅は、一切のためらいもなく札を受け取った。 そこには慰めも、情緒も、別れを惜しむ余韻すらない。 用は済んだと言わんばかりに踵(きびす)を返し、そのまま夜の闇へと溶けていった。
引き止める言葉は出なかった。 空っぽになった財布を膝の上で握りしめ、女はただ、彼が消えた方向をぼんやりと見つめていた。
――行っちゃった。
そう思ったのに、不思議と胸は騒がない。 悲しみも、怒りも、まだ形を成していない。 ただ、心の表面に張り付いていた分厚い感情が、ベリリと一枚剥がれ落ちたあとのような、鈍い空白だけがそこにあった。
そのとき、足元の闇で小さな気配が動いた。 ベンチの下から、二つの光る目がこちらを覗いている。
「……猫?」
女が呟くと、低い声で鳴いて、一匹の灰色の猫が姿を現した。 野良だろうか。痩せてはいるが、警戒心は薄いようだ。 そっと指先を伸ばすと、猫は一瞬だけ迷う素振りを見せ、すぐにその小さな頭を女の手に擦り寄せてきた。
女は、ゆっくりと猫を抱き上げた。 温かい。 想像していたよりも、ずっと。 胸元に伝わるトクトクという速い鼓動が、ここ確かな「生」があることを伝えてくる。
さっきまで心臓をギリギリと締め上げていた焦燥感が、波が引くように少しずつ遠のいていくのを感じた。
「……あんたも、一人?」
猫は答えない。 ただ、喉をゴロゴロと鳴らし、彼女の腕の中で丸くなるだけだ。
女は顔を上げ、夜空を見上げた。 煌めくネオンも、罵り合う声も、ここには届かない。 あるのは、肌を撫でる夜風と、膝の上の重さと、確かな体温だけ。
――刺激はない。 ――燃えるような情熱もない。
けれど、この静けさは、どこも痛くなかった。
女は猫を抱いたまま、深く息を吸い込んだ。 羅睺羅が最後に残した言葉が、遅れて胸の底で反響する。
『苦しさを愛と呼ぶな』
猫の痩せた背中を撫でながら、女は小さく息を吐いた。 今夜、何かが劇的に解決したわけではない。 答えも、明日の決意も、まだ定まってはいない。
それでも―― これは、初めて自分の心が、誰にも振り回されていない夜だった。
ベンチの上、女と猫は互いの体温を分け合いながら、 長い夜が終わるのを静かに待っていた。
【File.006】





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