高市早苗、戦いの歴史【中編】
『流浪の若き狼 — 壊し屋・小沢一郎への反逆』
1993年、日本政治は激震に見舞われた。「自民党過半数割れ」だ。
豪腕・小沢一郎氏が仕掛けたクーデターにより、日本新党の細川護熙氏を神輿(みこし)に担いだ「非自民・非共産連立政権」が誕生した。
38年続いた自民党の単独支配が崩壊した瞬間であった。
日本中が「新しい政治」に酔いしれる中、トップ当選を果たしたばかりの高市早苗は、国会の片隅で立ち尽くしていた。
無所属の彼女には、情報も回ってこなければ、発言の機会も与えられない。
「何かを変えるには、組織に入らなければ……」
焦った彼女は、当時クリーンなイメージで人気だった「新党さきがけ」の門を叩いたのだった。
しかし、代表の武村正義氏からは「君のようなタカ派はウチには合わない」と冷たくあしらわれ、入党を拒否されたのだった。
彼女の保守的な国家観は、リベラルがブームの中では異端であった。
その後、政局は混沌を極め、細川内閣は佐川急便事件で崩壊した。
続く羽田内閣も短命に終わり、ついに自民党が宿敵・社会党と禁断の握手をして政権を奪還したのだった。
自社さ連立の誕生だった。
「理念なき数合わせ」。国民の政治不信が高まる中、小沢一郎氏は対抗策として、公明党や民社党などを飲み込んだ巨大野党「新進党」を結成した。
高市氏もまた、「自民党をぶっ壊す」という熱気と、「二大政党制」への期待から、この巨大戦艦に乗船することを決意する。
しかし、そこは呉越同舟。異なるイデオロギーが混在する党内に、彼女は次第に強烈な違和感を抱き始めたのだった。
決裂の時は、1996年の衆議院選挙直前に訪れた。
新進党の実質的オーナーである小沢一郎氏が、選挙の目玉公約として「消費税据え置きと所得税半減で計18兆円規模の減税」をぶち上げたのだ。
「財源はどうするんですか!
無責任なバラマキは将来世代へのツケになる!」
党内の税制調査会ですら「不可能」と結論づけていた禁じ手を、選挙目当てで強行する小沢氏の手法に、高市氏は猛然と噛み付いた。
「当選のためなら国の借金を増やしてもいいのか」
彼女の中にある「保守政治家としての良心」が、それを許さなかった。
1996年10月、新進党の公認で再選を果たした高市氏であったが、その胸中はすでに決まっていた。
「自分の信念を曲げてまで、この党にはいられない」
選挙からわずか1ヶ月後、彼女は離党届を叩きつけたのだった。
「有権者を裏切るのか」という批判の嵐の中、彼女が選んだ次の道は、かつて自分を拒絶し、落選させ、怪文書の嵐を浴びせた「自民党」であった。
当時の自民党は、社会党出身の村山富市氏を首相に担ぐなど迷走していたが、橋本龍太郎氏の下でようやく保守色を取り戻しつつあった。
「私がやりたい政治、守りたい国益を実現できる場所は、やはりここしかない」
かつての敵陣営への帰還は、無所属から始まり、新党ブーム、巨大野党と渡り歩いた「流浪の若き狼」が、ついに自らの「巣(ホーム)」を見つけた瞬間であった。
1996年12月、高市早苗は、自由民主党に入党した。ここから、彼女の本当の闘いが始まるのだった。
1996年末、念願の自民党入りを果たした高市早苗であったが、彼女を待ち受けていたのは栄光の凱旋パレードではなかった。
1997年、橋本龍太郎内閣による消費税の3%→5%への増税。
さらに同年秋、北海道拓殖銀行、山一證券といった巨大金融機関が相次いで破綻し、日本経済はデフレスパイラルの底なし沼へ突き落とされたのだった。
「自民党は何をしているんだ!」
国民の怒りは沸点に達し、1998年の参院選で自民党は大敗した。
当選2回の高市氏も、街頭に立つたびに有権者から厳しい罵声を浴びる日々が続いたのだった。
そんな絶望的な状況下で発足した1998年の小渕恵三内閣で、高市氏は「通商産業政務次官」という驚くべき辞令を受け取った。
通産省(現在の経済産業省)といえば、戦後の高度経済成長を牽引してきた「日本株式会社」の司令塔であり、
霞が関で最もプライドが高く、そして圧倒的な男性社会であった。その要塞に、37歳の女性議員がナンバー3として乗り込んだのだ。
それは前代未聞の人事であり、省内には「お手並み拝見」という冷ややかな空気が漂っていた。
しかし、彼女は飾り物で終わるつもりはなかった。
金融危機で瀕死の状態にある日本企業を救うため、「産業活力再生特別措置法」の策定に奔走した。
徹夜続きの議論で官僚たちと渡り合い、実務能力で彼らを黙らせていったのだった。
この時、彼女は「政策新人類」としての評価を不動のものにしたのであった。
2000年、小渕首相の急逝により、森喜朗政権が誕生したが、「神の国発言」などの失言が相次ぎ、森内閣の支持率は急落した。
マスコミからは連日バッシングを受け、党内の人間さえも森首相と距離を置き始めた。そんな中、高市氏だけは違った。
「総理が正しいことをしているのに、誰も守らないのはおかしい」
彼女は自ら「勝手補佐官」を名乗り、誰に頼まれたわけでもなく官邸に入り浸っては、マスコミ対応や政策立案に奔走したのだった。
損得勘定で動く永田町において、彼女のこの「義理堅さ」と「親分肌」な一面は、異彩を放っていた。
森政権末期、野党から内閣不信任決議案が提出され、政権は崖っぷちに立たされた。
その緊迫した局面で、高市氏は森首相に信じられない進言を行ったのだ。
「総理、チャンスです」
「何がだ?」
「不信任案が提出されている間は、国会は止まります。つまり、野党は再度の不信任案を出せません。この隙をついて、靖国神社を公式参拝してはいかがですか?」
政権が倒れるかどうかの瀬戸際に、最も政治的リスクの高い靖国参拝を敢行し、保守としての信念を貫くべきだというのだった。
「君なぁ、さすがにそれは……」
豪胆で知られる森首相も、このあまりに過激で戦略的な提案には絶句し、実行には移せなかった。
しかし、このエピソードは、若き高市早苗が単なる「森派の若手」ではなく、
国家観においては誰よりもラディカルで、純粋な保守思想の持ち主であることを証明していたのだった。
『奈落の2003年 — 「見えざる刃」と涙の敗北』
2002年、高市早苗は小泉純一郎内閣の下、経済産業副大臣に就任していた。
かつて「通産省」という伏魔殿に挑んだ若手議員は、今やエネルギー政策や産業再生を指揮する政府の要職にあった。
メディア露出も増え、その知名度と実力は盤石に見えた。しかし、2003年の衆議院選挙は、これまでとは全く異なる空気を孕んでいた。
小沢一郎氏率いる自由党と合併し、巨大化した「民主党」が、「マニフェスト(政権公約)」を掲げて自民党に挑んできたのだ。
「政権交代」の二文字がリアリティを持って語られ始めたこの選挙は、現職閣僚といえども安泰ではない、荒れた戦場となっていた。
奈良1区。高市氏の相手は、後に民主党政権で大臣を務めることになる馬淵澄夫(まぶちすみお)氏であった。
徹底したドブ板選挙で知られる強敵であったが、序盤の情勢調査は高市氏の圧勝を予測していた。
「2桁のポイント差がある。このリードでひっくり返された例はない」
陣営には楽観ムードさえ漂っていた。しかし、選挙戦中盤から、街の空気が凍りつき始める。
昨日まで笑顔で手を振り返してくれた商店主が目を逸らす。主婦層が集まるスーパーの前で演説をしても、冷ややかな視線だけが通り過ぎていく。
「何かがおかしい」
その違和感の正体は、高市氏の知らないところで進行していた、組織的な「人格破壊工作」であった。インターネットやSNSが普及していない時代だからこそ、その「噂」は防ぎようのない猛毒となって地域に浸透したのだった。
毎日のようにポストに投函される、差出人不明の怪文書。
「高市には隠し子が3人いる」
「副大臣になれたのは、党幹部に体を売ったからだ」
さらに、市内の喫茶店やファミレスには、見知らぬ女性グループが現れ、周囲に聞こえるような大声でそのデマを話し、去っていくという目撃情報が相次いだ。
政策論争など関係ない、女性としての尊厳を根底から踏みにじる卑劣なデマ。反論しようにも、相手が見えない「噂話」を打ち消す術はなかった。
「火のない所に煙は立たないと言うだろう?」
確実なリードは、泥のようなデマの中に溶けて消えていったのだった。
投開票日の夜テレビの速報が伝えたのは、現職副大臣・高市早苗の「落選」であった。
小泉旋風の余波で自民党が過半数を維持する中での、まさかの敗北。それは、彼女の政治キャリアにおける完全な「死」を意味するようであった。
「やれることは、全てやったはずなのに……」
悔しさと情けなさで、言葉にならなかった。
翌日、がらんとした選挙事務所の片付けをする高市氏の姿があった。
壁に貼られた「必勝」の為書きを剥がし、書類をダンボールに詰める。その作業の手を止めるたび、こらえきれない涙が頬を伝った。
昨日までの「先生」から、一夜にして「無職」へ。
しかし、このどん底の経験こそが、彼女を「政策通のエリート」から、人の痛みを知り、
どんな汚い攻撃にも屈しない「真の闘う政治家」へと変貌させる触媒となったのだった。
『鮮烈のデビュー戦 — 33歳の「猛女」vs 70歳の「好々爺」』
1994年、国会の委員会室の空気は、異様な緊張感と、ある種の戸惑いに包まれていた。質問席に立ったのは、当選2回、当時33歳の高市早苗だ。
身にまとっているのは、目が覚めるようなショッキングピンクのスーツに、時代を感じさせる大きな肩パッドに身を包んだ高市早苗だった。
まるでトレンディドラマから抜け出してきたような彼女の姿は、黒や紺の背広に沈む重厚な議場において、あまりにも異質だった。
しかし、マイクを握った瞬間、その場の空気は一変したのだ。
対峙するのは、自社さ連立政権で総理大臣に就任した当時70歳の社会党委員長・村山富市氏だ。
「好々爺(こうこうや)」然とした長い眉毛の村山首相に対し、孫娘ほどの年齢の若手女性議員が、
戦後政治のタブーである「歴史認識」について、鋭利な刃物のような質問を突きつけたのだった。
争点となったのは、戦後50年の節目に向けた「村山談話」の準備段階における、首相の歴史認識だった。
村山首相が「先の大戦は侵略行為であり、反省すべきだ」という趣旨の答弁を繰り返すのに対し、高市氏は一歩も引かない。
「総理、侵略とは具体的に何を指すのですか?定義も曖昧なまま、安易に国を代表して謝罪することは、先人への冒涜ではありませんか」
彼女の畳み掛けるようなディベートスキルは、新人議員の域を遥かに超えていた。
曖昧な答弁で逃げようとする老獪な首相を、論理の檻に追い込んでいくのだ。
そして、今も語り継がれる名言が飛び出したのだった。
「果たして総理自身が、日本国を代表して謝る、反省の意を表明する……結構なんですけれどもね」
彼女は一呼吸置き、冷ややかな視線で言い放った。「そこに国民的な合意はあるのですか?何をもって侵略とし、何が過ちだったのか。
ここが明確に見えないまま、勝手に私たちを代表して謝ってもらっちゃ、困るんですよ!」
論戦のクライマックスで村山首相が
「私の気持ちを理解してほしい」と感情論に訴えた瞬間、高市氏はトドメの一撃を放ったのだった。
「総理のその答弁を聞いて、私は思わず『厚顔無恥(こうがんむち)』という言葉が口をついて出そうになりましたが……」議場がざわめいた。
一国の総理に向かって「恥知らず」と言い放ったに等しい発言だった。しかし、彼女は涼しい顔でこう続けたのだった。
「……それは、失礼にあたりますので、飲み込みました」
言わないと言いつつ、しっかりと相手にその言葉を刻み込む。フリースタイルダンジョン顔負けの強烈な皮肉とレトリックだった。
この瞬間、永田町の住人たちは悟ったのだ。この派手なスーツの女性は、単なる「元キャスター」でも「客寄せパンダ」でもない。
腹の底に、誰よりも硬質で危険な「保守のマグマ」を煮えたぎらせた、本物の論客だったのだ。
後に「タカ派」「鉄の女」と呼ばれる高市早苗の真骨頂は、この33歳の若さですでに完成されていたのだ。
2003年の落選劇には、政治的な逆風とは別に、あまりにも「高市早苗らしい」笑えないエピソードがあった。
それは選挙戦の真っ最中、スポーツ紙「東スポ」が一面で報じた記事だった。
『阪神が優勝したら、読売新聞社前で六甲おろしを熱唱!』
熱狂的な阪神ファンである彼女は、寅壱姿で、この公約をぶち上げたのだった。
これに有権者は激怒した。「国政選挙は祭りじゃない」「そんなバカなことをしている場合か」。
真面目な奈良の保守層をドン引きさせたこの記事は、接戦の中で致命傷となったのだった。(※ちなみに、彼女はこの記事を「恨みのデスノート」として大切に保存していたが、
20年後に東スポの取材を受けた際は「あの時はよくも書いてくれたな」と満面の笑みで記者を煽り返したそうだ。
転んでもタダでは起きない性格は、この頃からだったのだ)
落選の現実は過酷だった。「先生」のバッジを失うことは、彼女を支えてきたスタッフたちが路頭に迷うことを意味したのだ。
実弟を含む4人の秘書たちは、翌日から職を失った。自分のこと以上に責任を感じていた高市氏に、救いの手を差し伸べたのは、
所属していた派閥、「森派の清和政策研究会」、の仲間たちだった。
「高市君の秘書なら優秀だろう。ウチで引き取るよ」家具や備品、そして秘書たちを仲間たちが引き取ってくれたのだ。
特に、実弟を秘書として雇い入れてくれたのが、同じ清和会の先輩議員・山本拓(やまもとたく)氏だった。
この時、山本氏が見せた男気が、どん底の高市氏を救ったのだ。そしてこの「恩義」が、後に二人が夫婦となる運命の伏線となったのだった。
しかし、高市早苗という人間は「可哀想な浪人」では終わらなかった。
落選直後、彼女の元にはオファーが殺到したのだ。その知名度と、松下政経塾や米国議会フェローで培った知見、そして通産省での実務経験。
「政治家でなくとも、彼女は超一流の人材だ」彼女はいきなり近畿大学経済学部の教授に就任したのだ。
給料をもらいながら研究し、学生に教え、おまけに落選して時間もある。彼女は「最強の浪人」として復活を遂げたのだった。
自由な時間と「教授」という肩書きを手に入れた彼女は、インターネットという武器をフル活用し始めたのだ。
当時はまだSNSも普及していないブログ黎明期だった。しかし、彼女のコラムは現職議員よりも過激で、鋭いものだった。
「外国人参政権?有事の際にどうするつもりだ」
「セクハラ議員の実名、ここに書きます」
「田原総一朗さん、それは間違いです」
と長文反論をおこなったのだった。
特に2004年のサッカーアジアカップで、中国サポーターが日の丸を燃やした事件に対しては、ブログでこう吼えたのだった。
「(日本政府は)一発きつくかましてやってほしい」外交的配慮など知ったことかと言わんばかりの、直球すぎる発言だった。
彼女は、マスメディアのフィルターを通さず、ネットを通じて直接国民に「保守の論理」を訴えかける、現代のスタイルをこの時期に確立していたのだった。
そして、あの「公約」も忘れてはいなかった。落選によりもはや実行する義務などないはずの「六甲おろし」。
しかし彼女は「約束は約束だから」と、わざわざ読売グループである日本テレビの前へ出向き、寅壱姿で「六甲おろし」を熱唱したのだった。
誰も得をしない、しかし一度口にしたことは絶対に曲げない。
その奇妙なまでの「律儀さ」と「胆力」を蓄えながら、高市早苗は来るべき復活の時――郵政解散という嵐を静かに待っていたのだった。
『交際0日の「政治婚」と、最強の刺客』
2004年、浪人中の高市早苗に衝撃的な電話がかかってきたのだった。
相手は、落選時に弟や秘書を引き受けてくれた恩人であり、同じ派閥の先輩議員・山本拓(やまもとたく)氏だった。
「僕と結婚しないか?」
それは愛の告白というより、まるで選挙の連立工作のような口調だった。
実は、高市氏はブログで「山本氏は無愛想で、どちらかと言えば苦手なタイプ」と公言していたほどだ。恋愛感情など微塵もなかったのだ。
しかし、彼女は即決したのだった。
「わかりました。受けさせていただきます」
交際期間はゼロだった。
決め手は、彼が弟たちを救ってくれたという「男気」への恩義と、政治家として互いに背中を預けられるという直感だったのだ。
後に彼女はこの結婚を「政策協定を結んだようなもの」と笑ったが、この「同志的結合」こそが、彼女の精神的な安定基盤となったのだった。
そして2005年、日本政治史に残る大嵐が吹き荒れた。それは、「郵政解散」だった。
小泉純一郎首相は、郵政民営化に反対する自民党議員を公認せず、対立候補を送り込むという前代未聞の粛清を行ったのだった。
「高市君、君には奈良2区に行ってもらう」
党本部からの指令は過酷なものだった。
前回落選した奈良1区ではなく、全く地盤のない奈良2区への「国替え」だったのだ。
しかもそこには、民主党の現職である中村哲治氏と、郵政造反組である新党日本・滝実氏が待ち構えていたのだった。
「負ければ今度こそ終わり」。
しかし、彼女は不敵に笑ったのだ。
「望むところです。小泉改革の旗、私が奈良で立ててみせます」
選挙戦は「小泉劇場」の熱狂に包まれたが、高市氏はブームに頼らなかったのだ。彼女が選んだ戦術は、愚直なまでの「ドブ板」だった。
毎朝4時に起床し、身支度を整え、6時には駅前に立つ。街頭演説という辻立ちの回数は誰よりも多く、握手の数は誰よりも多かったのだ。
「あの高市早苗が、ここまでやるか」
有権者は、テレビの中の「元キャスター」ではなく、
汗まみれで走り回る「現場の政治家」の姿に心を動かされたのだった。
心理学者のリチャード・ワイズマンはこう定義している。『運とは、スピリチュアルな力ではない。圧倒的な行動量が生み出す、確率の上振れである』。
かつて父が言った「お前は運が強い」という言葉。それを彼女は、物理的な行動量で証明してみせたのだった。
投開票の結果は、2位に2万票近い差をつけての圧勝だった。1年8ヶ月の浪人生活を経て、高市早苗は国政の場へ帰還したのだ。
その表情には、かつての落選時の脆さは微塵もなかったのだった。
そして、この選挙で同じく圧勝し、小泉内閣の官房長官として絶大な権力を握りつつあった男——安倍晋三。
「保守の理念」と「国家観」を共有する二人の運命の歯車が、ここから音を立てて噛み合い始めたのだった。
運命の歯車がかみ合った
2006年9月、小泉純一郎氏の後継として、戦後最年少の総理大臣・安倍晋三が誕生したのだった。
組閣本部から呼び出された当時45歳の高市早苗は、受話器の向こうの盟友・安倍総理の言葉に耳を疑ったのだ。
「高市君、君には内閣府特命担当大臣をやってもらう」
「はい、謹んで……担当は何でしょうか?」
「高市君、君には内閣府特命担当大臣をやってもらう」
「はい、謹んで……担当は何でしょうか?」
「沖縄・北方対策、科学技術政策、イノベーション、少子化対策、男女共同参画、食品安全。あ、それと青少年育成も頼む」
「……はい?」
提示されたのは、あまりに脈絡のない「6つの担当大臣」の兼務だった。
通常なら2〜3人で分担する業務量だったのだ。
同期であり、タカ派の思想を共有する彼女への全幅の信頼の証とはいえ、それは「死ぬ気で働け」という宣告に等しいものだったのだ。
高市氏は覚悟を決め、記者会見でこう言い放ったのだった。「過労死する覚悟で働きます」
就任当日は、まさに戦場だった。呼び出しから皇居での認証式まで、わずか数時間だったのだ。
早苗は、普段はパンツスーツばかりで、ドレスなど持っていなかったので、慌てて貸衣装屋に走り、ロングドレスを調達したのだった。
官邸のトイレで着替え、髪をセットし、アクセサリーをつける。そして迎えた認証式の直前、鏡を見た彼女は青ざめたのだった。
「ネックレスに値札がついている……!」
慌てて値札を引きちぎろうとした瞬間、「ブチッ」という鈍い音と共にネックレスは破壊され、真珠が床に散らばったのだった。
結局、壊れたネックレスをポケットに突っ込み、ノーアクセサリーで天皇陛下の御前に進み出た新大臣、高市早苗であった。
その心臓は、重圧と恥ずかしさで早鐘を打っていたのだった。
大臣としての激務が続く2007年1月、事件は起きた。
閣僚の一人である柳澤伯夫・厚生労働大臣が、講演で女性を指して「産む機械」と表現したのだ。
「女性は子供を産む機械、装置の数。(女性の数という意味だ)。が決まっているから……」
この発言に世論は猛反発したが、誰よりも傷つき、激怒したのは、少子化担当大臣である高市早苗その人だったのだ。
彼女は20代の頃から婦人科系の病気に苦しみ、手術を繰り返してきたのだった。
子供を望んでも、身体的にそれが叶わない苦しみを誰よりも知っていたのだ。
閣議後の記者会見、あるいは内部の会議で、彼女は声を震わせて柳澤氏に詰め寄ったといわれるのだった。
「子供を産めない女性は、不良品だと言うのですか!」「機械ならリコールがきくけれど、人間はそうはいかないんです!」
それは、政治家としての抗議を超えた、一人の人間としての尊厳をかけた叫びだったのだ。
この時、安倍総理や周囲の男性議員たちは、彼女の抱える「痛み」と、保守政治家としての強さの裏にある繊細さを思い知ることになったのだった。
しかし、第一次安倍政権は短命に終わったのだ。
消えた年金問題、閣僚の失言ドミノ、そして安倍総理自身の持病である潰瘍性大腸炎の悪化により2007年9月、安倍総理は無念の辞任を表明したのだった。
志半ばで倒れた盟友を、高市氏は支えきれなかった無力感と共に去ることになったのだった。
その後、福田康夫内閣、麻生太郎内閣と短命政権が続き、2008年のリーマン・ショックが日本経済にトドメを刺したのだ。
そして2009年8月、衆議院選挙で自民党は歴史的惨敗を喫し、民主党への政権交代が実現したのだった。
高市早苗、そして安倍晋三を含む自民党の保守派たちは、長く暗い「野党という名の冬の時代」へと突き落とされたのだった。
反逆の決断
2009年8月、政権交代選挙において、民主党への熱狂的な風が吹く中、高市早苗もまた、奈良2区で敗北を喫したのだった。
辛うじて比例代表で復活当選を果たしたものの、「小選挙区で勝てなかった」という事実は、プライドの高い彼女にとって耐え難い屈辱だったのだ。
「私は、有権者にNOを突きつけられたのか」
自民党が野党に転落し、多くの同僚が去っていく中、彼女はブログという塹壕に立てこもり、民主党政権の矛盾を徹底的に突き続けたのだった。
尖閣諸島中国漁船衝突事件への弱腰対応、東日本大震災での迷走……。
「このままでは日本が壊れる」彼女の危機感は、ブログの文字数を爆発的に増やし、同時に「保守の再興」への渇望を極限まで高めていったのだった。
そして2012年、運命の秋が訪れたのだ。
自民党総裁選だった。所属する最大派閥「清和政策研究会」。からは、会長である町村信孝氏が出馬を表明していたのだった。
派閥の論理で言えば、子分は親分を全力で支えるのが鉄の掟だ。裏切れば、資金もポストも、政治生命すら失いかねないのだった。
しかし、高市氏の心には一人の男しかいなかったのだ。
「日本を立て直せるのは、安倍晋三しかいない」
当時、安倍氏は一度政権を投げ出した「終わった人」と見なされ、本命は石破茂氏と言われていたのだった。
勝ち目の薄い戦い。それでも彼女は、派閥に辞表を叩きつけたのだった。
「私は安倍さんを応援します。除名処分でも構いません」それは、政治家としての「親殺し」にも等しい、命がけの反逆だったのだ。
彼女は町村氏に土下座して詫び、その足で孤独な戦いを始めた安倍陣営へと走ったのだった。
「高市君、ありがとう」少数の側近だけでスタートした安倍陣営だったが、
地方票で石破氏に敗れたものの、決選投票で見事な大逆転勝利を収めたのだった。
安倍晋三、総裁への返り咲きだったのだ。
その直後、高市氏は党三役の一角、広報本部長に抜擢されたのだった。
迫りくる衆議院選挙において、高市早苗に託されたミッションは、傷ついた自民党のイメージを刷新し、国民の心に火をつけることだったのだ。
彼女が世に放ったポスターとスローガンは、あまりにも鮮烈だった。
力強い眼差しの安倍総裁の顔写真。そして、その横に記された、短くも強烈な一言。『日本を、取り戻す。』
主語も目的語も削ぎ落とされたこの言葉は、震災の傷跡、長引くデフレ、外交敗北に打ちひしがれていた国民の深層心理に突き刺さったのだった。
「誰から?」「何を?」という野暮な説明はいらなかったのだ。
「強い日本を、安心できる暮らしを、私たちの誇りを、取り戻す」
このスローガンは、単なる選挙コピーを超え、時代の空気そのものを変える魔法の言葉となったのだった。
2012年12月16日、第46回衆議院議員総選挙の結果は、自民党の圧勝だった。政権奪還を果たした夜、万歳三唱の中に、高市早苗の姿があった。
3年前の屈辱、派閥離脱のリスク、そして「終わった人」と呼ばれた盟友との共闘。
すべての賭けに勝ち、彼女は再び、日本の舵取りを行う中枢へと帰還したのだった。
ここから、歴代最長となる安倍政権、そして高市早苗自身も「総務大臣・歴代最長在任記録」を打ち立てる、黄金の時代が始まったのだった。



コメント