| 第一章:断絶の朝 ――あるいは、未知へと踏み出す予感 駅前の古びた喫茶店には、いつも同じ、少し湿り気を帯びた豆の香りと、色褪せたビロードの椅子の感触があった。 彼女は、その琥珀色の空間に溶け込むように座っていた。手入れの行き届いた指先で、真っ白なカップを持ち上げる。その動きには一点の乱れもなく、彼女が重んじる「規律ある日常」そのものを体現しているようだった。 「ここ、落ち着くんです」 窓から差し込む斜陽を背に、彼女が小さく微笑んだとき、私はそこに絶対的な安息を感じた。それは、荒れ狂う海から逃れてようやく辿り着いた、波ひとつない入江のような静寂だった。 しかし、その静寂はやがて、私の耳の奥で微かな耳鳴りへと変わっていった。 「今度、新しくできた山の上のカフェに行ってみないか。景色がいいらしいんだ」 私の提案に、彼女の眉が微かに動く。 「道も混むでしょうし、慣れない場所は疲れてしまうわ。……今のままで、十分幸せじゃない?」 彼女の言葉は、正論という名の真綿となって私の首を優しく包み込む。彼女が愛しているのは、私という人間以上に、私と一緒に作り上げた「昨日と変わらない今日」なのだと気づいたのは、それから間もなくのことだった。 副業を始めたいと告げた夜、リビングの空気は凍りついた。 「失敗したらどうするの? 今の生活を壊してまで、何を手に入れたいの」 彼女の瞳には、私の挑戦への期待ではなく、平穏を乱されることへの純粋な恐怖が宿っていた。 その瞬間、私たちは同じ船に乗っているようでいて、全く別の海図を見ていたことを知る。彼女は錨を下ろし、嵐を避けることを最優先し、私は帆を上げ、水平線の先にある未知を渇望していた。 しかし、私は彼女に従った。彼女がブレーキを掛けてくれたことに、私は心のどこかで安堵していたのかもしれない。 | |
| 第二章:停滞の果て ――あるいは、静かなる魂の死 家路を急ぐ通勤列車の窓。そこに映る自分の顔に、私は愕然とした。 肌はくすみ、目に宿っていたはずの光は、長い年月をかけて少しずつ削り取られてしまったようだ。40歳を過ぎ、会社で自分より一回りも若い上司が、かつて私が夢見た事業を軽やかに成功させているのを眺めながら、私はただ、配られた資料の誤字を修正していた。 「あの時、もし一歩踏み出していたら」 そんな妄想は、家に着くと同時に、換気扇の音とともに吸い込まれて消える。 「おかえりなさい。今日の特売、大根が安かったのよ」 妻となった彼女は、20年前と同じ穏やかな声で私を迎える。食卓には、見慣れた和食が並び、テレビからは聞き飽きたバラエティ番組の笑い声が流れている。 「なぁ、もしあの時、私が会社を辞めていたら、どうなっていたと思う?」 私の問いに、彼女は箸を止めることなく答えた。 「失敗して、今のこの家も、この夕食もなかったかもしれないじゃない。無理しなくてよかったのよ」 彼女は正しい。常に正しかった。 彼女の「正しさ」に従って、私は副業の資料を捨て、転職の誘いを断り、友人の連絡を無視し続けてきた。その結果、私は「何ひとつ失わない代わりに、何ひとつ得られない」空洞のような人間になっていた。 50歳。早期退職の肩叩きにあった日、私は公園のベンチで、沈みゆく夕日を眺めていた。 手の中には、何も残っていなかった。 守り続けてきたはずの「安定」は、社会の荒波にあっけなく崩れ去ろうとしているのに、私にはそれを押し返す筋力も、泳ぎ抜くための技術も残されていない。 「だから言ったじゃない、変なことしなくてよかったって」 帰宅した私に、彼女は溜息混じりにそう言った。 その言葉は、救いではなく、私の人生に打たれた最後の釘のように響いた。 彼女を恨むことはできなかった。なぜなら、彼女を選び、彼女の言葉を盾にして「挑戦しない自分」を正当化してきたのは、他ならぬ私自身だったからだ。 今、私は変わらない日々を生きている。 朝起きて、決まった時間の電車に乗り、決まったメニューの食事を摂る。 肉体はまだ生きている。しかし、鏡の中の男は、とうの昔に魂の火を絶やしてしまった骸(むくろ)のようだった。 安定という名の檻の中で、私は静かに、自分自身が死んでいく音を聞いていた。 | |
| 朝、洗面所の鏡に向き合うたび、私はそこに「見知らぬ死者」を見つける。 肌に張りはなく、眼窩の奥に灯っていたはずの野心の残滓は、いつの間にか濁った諦念に取って代わられていた。歯を磨き、決まった色のネクタイを締め、型崩れした靴を履く。その一連の動作は、もはや生活の営みというよりは、精巧に作られた自動人形のデモンストレーションのようだった。 「いってらっしゃい。今日は雨が降るみたいだから、傘を忘れないでね」 背後からかけられる妻の声は、どこまでも穏やかで、慈愛に満ちている。彼女にとって、この凪(なぎ)のような日々こそが至上の幸福なのだ。私がかつて抱いた「ここではないどこか」への渇望は、彼女の手によって丁寧に摘み取られ、代わりに「安全」という名の造花が飾られた。 満員電車に揺られながら、私はかつて引き出しの奥に封印した、副業の事業計画書を思い出す。 あの時、私は確かに「生きて」いた。 リスクを計算し、未来を想像し、まだ見ぬ誰かの役に立つことを夢見て、心臓の鼓動を速めていた。 だが、今の私の心臓は、ただ生命を維持するためだけに、規則正しく、事務的なビートを刻んでいる。 職場のデスクに座れば、定年までのカウントダウンが脳裏をよぎる。 あと十数年。私はこの、誰にでも取って代われる椅子に座り続け、波風を立てず、上司の顔色を伺い、無難な書類を作成し続ける。 かつての仲間たちが独立し、あるいは失敗して傷つきながらも「自分の人生」を闊歩しているのをSNSの端々で見かけるたび、私は指先を止める。彼らの火傷のような痛みさえ、今の私には羨ましかった。 私には、傷がない。 失敗を恐れる彼女の願いを聞き入れ、あらゆる挑戦から逃げ続けた結果、私の魂は無傷のまま、ただ腐敗していった。 帰宅すると、食卓には昨日と同じような、栄養バランスの整った温かい食事が並んでいる。 「今日の仕事はどうだった?」 彼女の問いに、私は「いつも通りだよ」と答える。 その「いつも通り」という言葉が、自分の首を絞める索条(さくじょう)のように感じられた。 彼女は満足そうに微笑み、テレビのニュースに目を向ける。 彼女の隣で箸を動かしながら、私は悟るのだ。 私はこの先も、彼女を悲しませないために、この「幸せな監獄」の模範囚であり続けるだろう。 定年を迎え、体が動かなくなるその日まで、私は一度も全力で走ることなく、一度も声を枯らして叫ぶことなく、静かに、穏やかに、この生ける屍(しかばね)としての生を全うするのだ。 ふと窓の外を見ると、夜の街を一台のタクシーが走り去っていった。 あの車がどこへ向かうのか、私にはもう関係のないことだった。 ただ、胸の奥に澱(おり)のように溜まった「もしも」という名の冷たい灰が、今日も私の体温を少しずつ奪っていく。 どちらが正しいわけでもない。 彼女は、彼女の信じる「正解」を守り抜いたのだ。 そして私は、その「正解」という名の墓標を、自分の人生の真ん中に立ててしまった。 | |
| その日は、朝からしとしとと細い雨が降っていた。 湿り気を帯びた空気が家の中にまで忍び込み、古い紙の匂いを呼び覚ましている。妻が「少し片付けをしましょうよ」と微笑み、私は言われるがまま、数年も開けていなかったクローゼットの奥にある段ボール箱を引っ張り出した。 不用品を仕分ける私の指先は、まるで冷えた機械のように淡々と動く。 その時、箱の底、古い雑誌の束の間に、一冊の薄い手帳が挟まっているのを見つけた。 それは、十数年前、私が副業を夢見ていた頃に愛用していたアイデアノートだった。 震える指でページをめくる。 そこには、今の私からは想像もつけないほど、躍動感に満ちた文字が並んでいた。 「独自の販路を開拓する」「来年までに月収を……」「自分にしかできない価値を」。 走り書きされた青いインクの文字は、まるで行間に閉じ込められた熱量がいまにも弾け出しそうに、ギラギラとした光を放っている。 当時の私は、寝る間も惜しんでこのノートに向かっていた。 深夜の静寂の中で、パソコンのブルーライトに照らされながら、まだ見ぬ未来を本気で信じていた。あの時、私の心臓は確かに、自分だけの物語を刻もうと激しく脈打っていたのだ。 「……あ」 喉の奥から、乾いた声が漏れた。 それは、かつての自分との再会であり、同時に、今の自分が失ってしまったものへの弔辞でもあった。 「あなた、どうかしたの?」 背後から妻の穏やかな声が響く。振り返ると、彼女はいつも通りの、慈愛に満ちた表情で立っていた。その背後には、ローンを完済しつつある清潔な家と、何年も変わることのない、穏やかで秩序ある日常が広がっている。 「……いや、なんでもないよ。懐かしいものが出てきただけだ」 私は、熱を帯びたノートを静かに閉じた。 そして、小さく、一度だけ頭を振った。 これで、よかったのだ。 このノートの続きを書き込んでいたら、私は今、どこで何をしていたか分からない。もしかしたら借金に追われていたかもしれないし、心身を壊して路頭に迷っていたかもしれない。 彼女が守ってくれたのは、退屈という名の安息だ。 私は、波風の立たない海で、溺れることなく今日まで生きてこられた。 この「死んでいるような平穏」こそが、私が自分の意志で選び取った、唯一の正解なのだ。 私はノートを「燃えるゴミ」の袋へと、迷いなく落とした。 ガサリと音を立てて、私の若さと野心は、他の不用品と一緒に闇の中に沈んでいった。 「お昼、何にする? いつものお店、予約しておきましょうか」 「ああ。そうしよう」 私は鏡に映る、生気のない、しかし「安全」な男の顔を見て、薄く笑みを作った。 外の雨は、いつの間にか止んでいた。 何も変わらない、何の波乱もない午後が、また静かに始まろうとしていた。 | |
| 定年という名の、長い長い「公式な役目」が終わった。 春の午後の陽光が、リビングの窓から音もなく注いでいる。厚手のソファに深く沈み込み、私は膝にかけた毛布のぬくもりを、ただ呆然と感じていた。テレビの音も、妻が台所で食器を洗う音も、どこか遠い異国の出来事のように聞こえる。 まぶたが重くなり、私は意識の境界線を越えて、深い眠りの淵へと滑り落ちていった。 ――夢の中の、もう一つの時間 そこは、今とは全く違う色をした世界だった。 鏡の中に映る私は、白髪こそ混じっているが、眼光は剃刀(かみそり)のように鋭い。 場所は、自宅の片隅に設けた雑多なオフィスだ。壁には付箋が溢れ、机の上にはかつてゴミ袋に捨てたはずの、あの「アイデアノート」が開かれている。 夢の中の私は、サラリーマンとしての安定を捨てていた。 貯金が底をつきかけ、妻と激しく言い争った夜の記憶。胃を焼くような不安で眠れなかった数え切れない日々。しかし、同時にそこには、今の私が見失った「爆発的な熱量」があった。 画面越しに、私のサービスや言葉を待っている何千人という見知らぬ誰かと繋がっている感覚。自分の足で立ち、自分の言葉で価値を生み出し、社会の荒波を真っ向から受け止める痺れるような快感。 「代表、次のプロジェクトの打ち合わせですが……」 若いスタッフの声に呼ばれ、私は颯爽と席を立つ。 失敗もした。屈辱も味わった。それでも、私の顔には深い「刻(きざ)み」があった。それは後悔ではなく、戦い続けた男だけが持てる、誇り高いシワだった。 そこでは、私は「何者か」だった。 私は、自分の人生を、自分の手で使い切っていた。 ――覚醒、そして静止した日常 「……あなた、風邪を引くわよ」 肩を優しく揺さぶられ、私は現実に引き戻された。 目を開けると、そこには夢の中の喧騒(けんそう)など微塵もない、完璧に整理整頓されたリビングがあった。 妻が心配そうに私を覗き込んでいる。 「随分とうなされていたけれど、怖い夢でも見たの?」 私は乾いた唇を動かし、少し時間を置いてから答えた。 「……いや。ただ、少し昔の仕事のことを思い出していただけだ」 「もう、仕事のことは忘れていいのよ。これからは二人で、ゆっくり穏やかに過ごしましょう」 彼女は満足げに微笑み、淹れたての茶をテーブルに置いた。 湯気の向こう側で、彼女の顔が優しく歪む。彼女にとって、この静寂こそが正解なのだ。私の夢に出てきた「戦う男」は、彼女にとってはただの悪夢でしかないのだろう。 私はゆっくりと起き上がり、温かい茶を一口啜(すす)った。 夢の中の自分の、あのギラギラとした瞳の残像が、網膜の裏側でゆっくりと薄れていく。 「そうだな。もう、終わったことだ」 私は自分に言い聞かせるように呟いた。 選ばなかった道。捨てた可能性。燃え尽きることなく、ただ摩耗し続けた40年。 それが、私の選んだ「安定」という名の対価だった。 窓の外では、風に揺れる庭木が規則正しいリズムを刻んでいる。 定年後の果てしなく続く平穏な日々が、私の前に広がっている。 それは、かつて憧れた安息の地であり、同時に、一生出ることの叶わない、どこまでも心地よい墓標のようでもあった。 私は再びソファに深く身を預けた。 日の光はどこまでも暖かく、そして、どうしようもなく残酷だった。 | |
| 夢の残熱は、春の午後の陽光にあっけなく溶けて消えた。 目を開けていても、閉じていても、目の前に広がる景色に大差はない。 妻が淹れてくれた茶の湯気が、ゆらゆらと宙にほどけていくのを眺める。その微かな揺らぎさえ、今の私には過剰な刺激に感じられるほど、家の中は静まり返っていた。 「……ああ、いい天気だ」 独り言のように呟いた言葉は、誰に届くこともなく、カーテンの隙間で踊る埃(ほこり)の群れに吸い込まれていった。 あの夢の中で感じた、胸を焼くような焦燥も、指先に残っていた仕事の確かな手応えも、今では遠い銀河の出来事のように現実味がない。 私は、このソファという名の終着駅に辿り着いたのだ。 ここには嵐もなければ、荒波もない。 かつて私が彼女との約束のために守り抜いた「平穏」という名の果実が、今、完熟を過ぎて静かに足元へ落ちている。 ふと、自分の手が視界に入った。 シミの増えた、力のない手。この手で何かを掴み取ろうとした季節は、もう二度と戻ってこない。 かつて捨てた「あのノート」の行方は、もう思い出すことさえ難しい。私の人生を構成していた無数の「選択肢」は、長い年月をかけて一つずつ丁寧に剪定(せんてい)され、今やこの一本の、枯れかけた細い枝だけが残っている。 妻の足音が、遠くの部屋で規則正しく響いている。 彼女は今も、正しい。 私たちは壊れず、汚れず、何者にも脅かされることなく、こうして最期まで「安全」な場所で、ゆっくりと透明になっていく。 意識が再び、薄い霧の中に包まれていく。 眠気なのか、それとも魂の輪郭が薄れているのか、自分でも判然としない。 ただ、窓から差し込む光が、私の輪郭を少しずつ削り、部屋の景色の中に塗り込めていくような感覚があった。 悔いはない、と自分に言い聞かせることさえ、もう必要ない。 感情の起伏は凪ぎ、思考は緩やかに停止していく。 私は、私という物語を閉じる準備を始めていた。 結末は、劇的な大団円でも、悲痛な破滅でもない。 ただ、陽光の中で静かに色が褪せていく一枚の古い写真のように。 誰に気づかれることもなく、そっと、世界からフェードアウトしていく。 時計の針が刻む音だけが、私の生を証明する最後の鼓動のように、いつまでも、いつまでも響いていた。 ――終。 | |
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