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『硝子の凪(なぎ)』

彼女を「救えなかった」んじゃない。「救ってはいけなかった」んだ。

俺はそうつぶやいた。

感情の残滓(ざんし)
彼女は、泣きながら笑う人だった。
初めて会った夕暮れの喫茶店。
西日が彼女の横顔を透かし、細かな埃が金色の粒子となって舞っていた。
自己紹介の途中で、彼女の大きな瞳にじわりと膜が張る。
「緊張しちゃって……」 はにかむように零れた言葉と、潤んだ瞳。
そのアンバランスな美しさに、私は喉の奥が熱くなるのを感じた。
この人を、雨風の当たらない場所へ連れて行ってあげたい。
その傲慢なまでの守護欲が、すべての終わりの始まりだった。
付き合い始めの季節は、万華鏡のように目まぐるしく、鮮やかだった。
彼女の感情は、凪(なぎ)を知らない海に似ていた。 腹の底から笑うときは、春の陽光を一身に集めたような無邪気さを見せ、悲しみに暮れるときは、まるで世界中の絶望をその細い肩に背負っているかのように激しく慟哭した。
「感受性が、人より少し鋭いだけなんだ」 自分に言い聞かせる言葉は、いつしか祈りに似た呪文へと変わっていった。
最初の亀裂は、湿り気を帯びた六月の夜だった。
仕事の立て込みで、たった二時間、スマートフォンの画面を確認できなかった。
「もう私のこと、どうでもいいんでしょ?」
通話口から聞こえる声は、私の知る彼女の温度を失っていた。
必死に弁解の言葉を重ねる私を遮るように、彼女は突然、幼児のように泣きじゃくり、数分後には憑き物が落ちたような声で呟くのだ。
「ごめんね、私、重いよね……」
その湿った謝罪を浴びるたび、私は「そんなことないよ」と優しく微笑む、聞き分けの良い恋人を演じ続けるしかなかった。
だが、擦り切れたフィルムのように、その演技には徐々にノイズが混じり始めていた。
決定的な違和感は、ある夏の日、陽炎の立つ国道で訪れた。
渋滞。レストランの予約時間は無情にも過ぎていく。
車内には、エアコンの冷気と、彼女が発する刺すような沈黙が充満していた。
「電話して、少し遅れるって伝えるよ」
私が受話器に手を伸ばした瞬間、彼女の顔から、すべての表情が剥がれ落ちた。
「……もう無理」 つぶやきは、呪詛のように響いた。 次の瞬間、彼女は走行中のドアをこじ開けようとし、停車した途端に叫び声を上げた。
「こんなデート、意味ない!」
荒々しくドアを開け、車から飛び出すと、人混みの中へ消えていった。
彼女の背中を、私はただ、ハンドルを握りしめたまま見送るしかなかった。
バックミラーに映る自分の顔は、ひどく疲弊し、生気を失っていた。
その夜から、私の日常は彼女という「地震」に支配された。
謝罪と後悔、そして自己否定のメッセージが深夜まで画面を埋め尽くす。
「私、ダメな人間だよね。お願い、見捨てないで」
その言葉の重みに、私の倫理観は歪んでいった。
不機嫌の頻度は増し、彼女の怒りは、不器用な店員や、通りすがりの見知らぬ人、私の古い友人にまで無差別に牙を剥いた。
そのたびに私は、背中を丸めて謝罪して回り、彼女の撒き散らした感情の破片を拾い集める「後始末の係」になっていた。
「どうして私を怒らせるの?」
ある夜、暗い寝室で彼女が漏らしたその言葉は、冷たい刃となって私の胸を貫いた。
――違う。
怒らせているのは、俺じゃない。
――君の中に住まう、制御不能な怪物の仕業だ。
別れを告げたとき、彼女は文字通り錯乱した。
かつての甘い記憶を武器に変え、私の罪悪感を執拗に抉(えぐ)ってくる。
「ここまで一緒に来たのに、逃げるの?」
私は、奥歯を噛み締め、震える声で返した。
「逃げるんじゃない。これ以上、君の嵐の中にいたら、俺の心が壊れてしまうんだ」
沈黙が降りた。
彼女は力なく床に座り込み、その瞳からは、ついに光が消えた。
涙が止まり、感情が空っぽになったその顔を見て、私は確信した。
この人は、誰かに愛される前に、自分という底なし沼と向き合わねばならないのだと。
恋愛は、互いを消耗させる戦場ではない。
誰かの「感情の爆弾処理班」として人生を捧げることでもない。
私はその夜、自分の輪郭を取り戻すために、彼女が待つ部屋の鍵を置き、静かに夜の街へと踏み出した。
彼女が壊れる前に、俺が壊れた。
「病院も調べてる」
「あなたがいないと生きられない」
その呪縛に囚われ、私は何度も引き返した。
彼女の不安定さは、いつしか共依存という名の不治の病となり、私の職場にまで影を落とした。
大事な会議の最中、震えるスマートフォン。
「もう限界。消えたい」
駆けつけた部屋で、彼女はぐちゃぐちゃになった枕を抱いて泣いていた。
「どうして私を、こんな気持ちにさせるの?」
その問いに、私は自分が何者なのか、その答えを見失った。
恋人、保護者、カウンセラー、あるいは、彼女という怪物を閉じ込める檻。
夢の中でも彼女は泣き叫び、私の精神は砂時計の砂のように、刻一刻と摩耗していった。
終わりの日は、重い雨が降っていた。
終幕の雨
決定的な夜は、逃げ場のないような、粘りつく雨の日に訪れた。
郊外のファミレス。
窓ガラスには叩きつけるような雨粒が斜めに走り、外の景色を歪んだ抽象画に変えていた。
店内に流れる安っぽいBGMが、かえって私たちの間の沈黙を際立たせる。
事の端緒は、またしても些細なことだった。
注文した料理が少し冷めていた。
ただそれだけのことが、彼女の中の「導火線」に火をつけた。
「客を馬鹿にしてるの?」
彼女の声が、静かな店内に硬い礫(つぶて)のように投げつけられる。
震える手で店員を呼びつけ、言葉の暴力でなぶりものにする彼女の横顔は、私がかつて守りたいと願ったあの潤んだ瞳の女性とは、似ても似つきぬものに変貌していた。
店員が何度も頭を下げ、周囲の客が居心地悪そうに視線を逸らす。
その冷ややかな空気の中で、私の胸の奥に溜まっていた泥のような疲労が、一気に溢れ出した。
「もうやめろよ。恥ずかしいだろ」
初めて、遮るように、そして突き放すような冷たい声を投げた。
その瞬間、彼女の動きが止まった。ゆっくりとこちらを向いた彼女の瞳には、激しい怒りではなく、底知れない、どろりとした絶望が張り付いていた。
「……私の味方じゃないんだ。一番近くにいるはずのあなたが、私を否定するんだ」
彼女はバッグを掴み、中身がこぼれ落ちるのも構わず立ち上がった。
ガタリと椅子が鳴る。
「あなたが私を追い詰めた。あなたが、私を壊したんだから!」
店内に響き渡る絶叫。
しかし、不思議なほど私の心は凪いでいた。
「壊した」という言葉が、すとんと腑に落ちたのだ。
ああ、そうか。俺たちは二人で、共犯者として、お互いの形を壊し続けてきたのだ。
私は何も答えず、伝票を手に取ってレジへ向かった。
背後で彼女が何かを叫び、泣き崩れる気配がしたが、一度も振り返らなかった。
自動ドアが開くと、湿った夜の冷気が一気に肌を刺した。傘は彼女に持たせたままだった。
一歩、雨の中に足を踏み出す。
瞬時にシャツが肌に張り付き、体温が奪われていく。激しい雨音は、世界からあらゆる雑音を消し去ってくれた。
彼女の声も、私の罪悪感も、すべてを等しく叩き潰すような雨。
アスファルトを叩く飛沫(しぶき)が、足首を濡らす。 追いかけてくる足音はなかった。
ただ、雨音の向こう側で、彼女が私の名を呼んでいるような幻聴だけが、いつまでも鼓膜の奥にこびりついて離れなかった。

数日後、共通の知人から
「彼女は実家に戻り、今は静養している」
と聞いた。
その知らせを、私は職場の窓から降る雨を眺めながら聞いた。
救えなかったという悔恨は、不思議なほど湧いてこなかった。
私たちが重ねた時間は、愛という名の美しい織物などではなく、互いの首を絞め合うためだけの鎖だったのだ。
今でも、激しく窓を叩く雨の夜が来ると、あのファミレスの冷えた空気と、雨に濡れたアスファルトの匂いを思い出す。
「どうして私を、こんな気持ちにさせるの?」
闇の向こうから聞こえる彼女の問いに、今の私は静かに答えられる。
私たちは、一人で生きていくのが怖くて、二人で溺れる道を選んだだけだったのだと。
雨はすべてを洗い流してはくれない。
けれど、少なくとも私の頬を伝うこの滴が、彼女の涙なのか、ただの雨水なのかを判別しなくて済む程度には、世界を優しく隠してくれる。 私はもう、傘を差さずに歩くことに決めた。誰かの嵐に巻き込まれるのではなく、自分自身の雨を受け入れるために。


エピローグ:凪(なぎ)の食卓
それから、私の世界からは「音」が消えた。
新しい生活は、驚くほど静かだった。以前住んでいた部屋の家具は、彼女との記憶を削ぎ落とすように半分以上を処分し、今は最低限の道具だけが置かれている。 朝、決まった時間に目が覚める。カーテンの隙間から差し込む光が、床に長い長方形を描くのを、私はただ黙って眺める。
かつて、私の指先は常にスマートフォンの震えを恐れていた。通知音が鳴るたびに、心臓が跳ね、胃の奥が冷たく縮み上がる。それが日常だった。 今は、スマートフォンが鳴ることはほとんどない。机の上に置かれたそれは、ただの静かな硝子と金属の塊に戻った。仕事の連絡を除けば、そこにはもう、私の精神を揺さぶる「地震」の予兆はどこにもない。
台所に立ち、一人分の湯を沸かす。 シュンシュンと鳴るケトルの音、豆を挽く乾いた音。その一つひとつが、かつての絶叫や啜り泣きに代わって、私の耳に心地よく響く。 淹れたてのコーヒーを啜りながら、窓の外に広がる何気ない街並みを眺める。誰かが歩き、車が通り過ぎる。世界はこれほどまでに平穏で、他人同士で、無関心だったのだと今更ながらに気づかされる。
夜、仕事から帰っても、玄関のドアを開けるときに躊躇することはない。 暗い部屋の中に、誰かの怒りや悲しみが澱(よど)んでいることはもうないからだ。 自炊をして、一人の食事を摂る。テレビもつけず、ただ咀嚼する音だけが響く空間。かつてはあんなに恐れていた「孤独」が、今の私にとっては、何よりも贅沢な処方箋となっていた。
もちろん、すべてが癒えたわけではない。 ふとした瞬間に、彼女が好んでいた香水の匂いが鼻をかすめたり、街角で彼女に似た後ろ姿を見かけたりすると、心臓が小さく軋む。 「あのとき、別の言葉をかけていれば」 そんな無意味な仮定が、不意に暗闇から手を伸ばしてくることもある。
だが、私はその手を振り払う。 彼女を救えなかった罪悪感よりも、自分自身が生き延びたことへの安堵を、私は選ぶことにしたのだ。 それは薄情なことかもしれない。けれど、誰かの感情の波に飲み込まれ、共に溺死することが愛だとは、もう思えない。
雨の降る夜、私はベランダに出て、濡れた街路樹を見下ろす。 あの激しい雨の夜、私はすべてを捨てて外に出た。傘も持たず、震えながら歩いたあの冷たさが、今の私の背筋を真っ直ぐに伸ばしてくれている。
恋愛は、もういい。 今はただ、誰にも邪魔されずに眠り、誰にも脅かされずに明日を待つ。 この、硝子細工のように脆くて静かな平穏を、私は何よりも大切に守り抜きたいと思っている。
窓を閉め、明かりを消す。 静寂の中に、自分の呼吸音だけが聞こえる。 それは、私が私の人生を取り戻したことを証明する、もっとも確かな音だった。

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