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【立憲支持率0%の衝撃】日本のリベラルが若者に完全に見捨てられた7つの理由

目次

【立憲支持率0%の衝撃】日本のリベラルが若者に完全に見捨てられた7つの理由

「正しさ」に酔い、「信頼」を取り逃がした日本のリベラル

今回の衆院選で突きつけられた冷酷な現実は、日本におけるいわゆる「リベラル」の存在感が、完全に崩れ落ちたということだ。
とりわけ深刻なのが、若い世代からの圧倒的な「スルー」っぷりである。
N系列の調査で出た「20代の立憲民主党支持率0%」という数字は、単なる一時的な低迷というより、もはや若者の「視界に入っていない」証拠だろう。
代わりに20〜30代の受け皿になっているのは、手取りを増やすといった現実路線を打ち出す国民民主党や、新しい選択肢を示す新興勢力だ。
身も蓋もない言い方をすれば、立憲民主党、日本共産党、社会民主党、れいわ新選組といった日本型の「リベラル左派」は、今の若者にとって“終わったコンテンツ”なのだ。
本来、リベラルとは多様な生き方を肯定し、個人がより「自由」で幸福に生きられる社会を目指す、懐の深い思想のはずだ。
当然、健全な政治のバランスを保つうえで、絶対に欠かせない歯車である。
だが彼らは「リベラルは社会に必要だ」と声高に叫ぶ一方で、「なぜ自分たちはこれほどまでに支持されないのか?」という不都合な真実からは、ずっと目を背け続けてきたのではないか。
若者に響かない理由は、少し冷静に見れば明らかだ。
第一に、語る言葉が抽象的すぎて、生活のリアルと結びつかないことだ。
「人権」や「憲法」といった理念は確かに大切だ。しかし、明日の家賃や将来の給料に不安を抱える若者からすれば、「そんなイデオロギー闘争より、まずは今日の経済と生活のリアルを語ってくれ」となるのは当然だ。
第二に、理想に対する「実装の筋道」が見えないことだ。
現実的な経済観や安全保障観を示さず、理想をどうやって社会システムとして回すのかという提示がない。
そして何より致命的なのが、「反対すること」や「批判すること」自体が目的化し、エンタメ化している点だ。
特にれいわ新選組はエンタメ以外のなにものでもない。
そして他者の過ちを執拗に叩く不寛容な姿は、リベラルが本来標榜する「自由」とは真逆の息苦しさを若者に感じさせている。
「自由や多様性を語る人たちが、実は一番選択肢を狭め、同調圧力を生んでいるのではないか」という矛盾に、彼らはとうの昔に気づいているのだ。
支持を失った原因を「有権者がわかっていない」「政治に関心がないからだ」と外部に求めているうちは、未来はない。
原因は明らかに自分たちの内側にあるのだ。
いま求められているのは、ポエムのような耳ざわりのよい言葉ではなく、地味で泥臭くても実効性のある提案だ。
崇高な「価値観の主張」よりも、明日の生活を少しだけ良くする「具体的な解決策」である。
そこをすっ飛ばしている限り、「社会に必要な存在」であることと「有権者に支持される存在」であることの間の巨大な溝は、永遠に埋まらないだろう。
日本のリベラルは、自分たちの「正しさ」を語ることには長けていたが、泥臭く「信頼を勝ち取る」ことには無頓着であった。
その長年のツケが今、残酷な数字となって突きつけられているのである。

理由①:「現実」から目を背け、フワッとした理想論に逃げている

リベラル――とりわけ社会主義や共産主義的な色合いを帯びた主張が支持を失っている最大の理由は、
身も蓋もない言い方になるが、「現実を見ていない」ことに尽きる。
理想を語るのは自由だが、歴史を振り返れば、彼らの理念が国家運営の中核に据えられて、人々の生活が安定的に豊かになった例は驚くほど少ない。
ソ連、ベネズエラ、北朝鮮、カンボジア……それらの国が行き着いた先は「統制の強化」と「経済の停滞」、そして自由の抑圧だった。
情報感度の高い今の若者は、そうした「歴史の答え合わせ」をすでに済ませている。
彼らが求めているのは、ユートピア的な革命の夢ではなく、明日の給料を確実に上げるための現実的な経済の最適解なのだ。
安全保障に関するズレも深刻だ。いまの20〜30代がリアルに抱いている不安は、「日本が自ら戦争を起こすのではないか」という過去の亡霊ではなく、
「東アジアの厳しい安全保障環境のなかで、外からのリアルな脅威にどう備えるか」という切実な危機感である。
抑止力の構築、同盟関係の強化、有事の危機管理システム。
そうした泥臭い具体論をすっ飛ばして、ただお題目のように「戦争反対」と叫ばれても、不安は1ミリも解消されない。
理念は結構だが、それを機能させる「設計図」がない主張に説得力など生まれるはずがない。
さらに、一部の層に蔓延する過剰なレッテル貼りが、致命的なまでに自らの信頼を削り落としてしまっている。
たとえば、高市政権の誕生に対して「ナチスの再来だ」「ファシズムだ」といった強い言葉が飛び交った。
しかし、ナチスが台頭したのは、ワイマール共和国末期のハイパーインフレや天文学的な失業率といった、極めて特異な政治・経済的危機の連鎖の中でのことだ。
言論空間も制度設計もまったく異なる現代の日本において、安易に「ヒトラー」や「ナチス」を持ち出すのは、歴史に対する無理解と知的怠慢のそしりを免れない。
歴史から本当に学ぶべきは、扇情的な“似ている単語”を探すことではなく、“独裁が再現されうる条件”を冷静に分析することなのだ。
なんでもかんでも「ファシズム」と呼んで騒ぎ立てる姿勢は、世間からすればただの「オオカミ少年」であり、危機感の共有どころか現実認識の甘さとして冷笑されるだけである。
要するに、理想を掲げること自体は誰も否定していない。問題は、その理想を冷酷な現実世界に接続するための回路が、あまりにも貧弱だということだ。
耳ざわりのよい言葉よりも、血の通った「具体的なトレードオフ(あちらを立てればこちらが立たないという現実)」と、それを乗り越えるための「実装手順」を示すことである。
そこを語らない限り、「言っていることは正しそうだけど、国政は任せられない」という厳しい評価から抜け出すことはできない。
はっきり言えば、現実を直視する覚悟の欠如こそが、彼らへの支持離れを決定づけている最大の理由なのである。

理由②:致命的なまでの「上から目線」と選民意識

日本のリベラルから人々の心が離れていくもう一つの、そしておそらく最大の要因は、彼らの言動の端々からプンプンと漂ってくる「圧倒的な上から目線」だ。
リベラル側の論客がしばしば口にする「私たちの主張が理解されないのは、有権者の勉強不足だ」という態度は、支持を遠ざける最悪の悪手である。
選挙で敗れた直後にさえ、「リベラル思想は偏差値60以上でないと分からない。だから大衆には広がらない」といった趣旨の発言が平然と飛び出す。
これは要するに、「自分たちは賢くて正しい。理解できない有権者が無知で愚かなのだ」という特権階級のような選民意識の表れに他ならない。
しかし、普通に60以上の多くの年寄りにも彼らの選民意識に反吐が出ているはずだ。
「多様性」や「平等の尊重」を誰よりも声高に掲げる人たちが、最も学歴主義的で特権的な物言いをしているのだから、その矛盾は痛々しいほどだ。
自己反省を放棄した思想に、広がりなど生まれるはずがない。
選挙戦の現場でも、その空気は隠しきれない。
立憲民主党系の候補が対立候補を「とんでも候補」と見下し、有権者に向かって「どうか賢明なご判断を」とマイクで呼びかける。
そこには、対立候補への最低限の敬意もなければ、その相手に一票を投じるかもしれない生身の生活者への想像力もない。
おい、杉尾議員、お前の事だ!

本来、政治とは意見の違う相手を巻き込んでいく泥臭い「説得」の営みであるはずだ。
しかし、彼らがやっているのは、高い教壇から無知な大衆を教え諭す「お説教」になってしまっている。
敗因の総括も、いつも同じパターンだ。
「SNSの誹謗中傷が悪かった」「メディアの報じ方が偏っていた」「選挙制度に欠陥がある」と、外部要因ばかりを並べ立てる。
民主主義の基本は、まず「有権者の下した結果を謙虚に受け止めること」から始まる。
なぜ自分たちの言葉が響かなかったのか?
どこが有権者の感覚とズレていたのか?
という一番痛い自己反省から逃げ回り、環境のせいにしているうちは、何度選挙をやっても同じ過ちを繰り返すだろう。
制度論にしても一貫性を欠く。
たとえば小選挙区制の抜本的な見直しを地道に訴えてきたのは国民民主党などであり、立憲民主党はむしろ現行の枠組みを容認し、その果実を享受してきた過去がある。
それなのに、自分たちに不利な風が吹いた途端に「制度が悪い」と文句を言い始める。
「自分たちに有利な時は擁護し、不利になるとルールを叩く」。
そう有権者に見透かされてしまえば、主張の中身以前に、政治家としての「姿勢」そのものが信用されなくなるのは当然だ。
結局のところ、自分たちの「正しさ」を振りかざして相手を論破しようとするほど、有権者の尊厳は削られ、心は離れていくのだ。
政策が右か左か以前の問題として、「この人たちは、私たちを対等な人間として扱ってくれているか?」という直感的な嗅覚で、有権者は判断を下しているのだ。
日本のリベラルが支持を失ったのは、彼らの思想が高尚で難解だからではない。
単にその「態度」が傲慢で、有権者を鼻白ませているからだ。
「見下されている」と感じた瞬間、対話の扉は永遠に閉ざされるという当たり前の事実に、彼らはいつまでも気が付かないだろう。

理由③:致命的なまでの「ダブルスタンダード(二重基準)」

若い世代がリベラル勢力から決定的に離れていく最大の要因の一つ。それは「言うことが相手や状況によってコロコロ変わる」という、ダブスタ(二重基準)への強烈な嫌悪感だ。
かつて立憲民主党などのリベラル勢力は、「安保法制は違憲」「原発ゼロ」「憲法改正絶対反対」という旗を強烈に振っていた。
ところが、いざ政権交代を現実的に狙うために保守層や中道層へアピールしようとしたり、他党と連携したりする局面になると、これらの主張は突如としてトーンダウンする。
政治において妥協や現実的な方針転換はつきものだ。
しかし、過去の強硬な主張を総括も説明もせず、しれっと「なかったこと」にしてしまえば、有権者には「理念よりも自分たちの選挙の都合が優先されただけ」と見透かされる。
これを柔軟性ではなく、ただのご都合主義という。
ジェンダー問題における矛盾も、あまりに露骨で目を覆いたくなる。
「女性の社会進出」や「女性リーダーの誕生」を声高に叫んできたにもかかわらず、いざ自分たちと政治的立場の異なる高市早苗氏のような保守系の女性政治家が台頭すると、途端に一部から人格否定のような侮辱的な言葉が飛ぶ。
「自分たちの価値観に合致する女性」だけをチヤホヤし、「合わない女性」は徹底的に引きずり下ろす。そんな「条件付きの理念」を見せつけられて、誰がその原則を信用するだろうか。
「結局、ジェンダー平等や多様性を、政敵を叩くための“都合のいい棒”として使っているだけではないか」という冷めた視線に、彼らは気づいていない。
政治資金問題にいたっては、もはや自己矛盾の極みだ。
自民党の不記載は「裏金だ!許されない!」と青筋を立てて断罪するくせに、自党の議員の不記載が発覚すると、とたんに「単なる記載ミス」「すでに修正した」と矮小化して擁護に回る。
個別の事情や金額の多寡はあるにせよ、そこに適用されている「定規」がまったく違う時点でアウトなのだ。
「自分に極めて甘く、他人に異常に厳しい」という姿は、若者が日常で最も嫌う「理不尽な大人」そのものである。
ネット社会は「過去の矛盾」を許さない 今の20〜30代は、すべての発言がデジタルデータとして記録され、瞬時に比較・検証される時代を生きている。
「昔言っていたことと違う」という矛盾は、検索一つで一瞬にしてバレるのだ。
方針を変えるなら変えるで、その理由と苦渋のプロセスを透明化し、過去の自分たちとの整合性を丁寧に説明する義務がある。
そこを怠って耳ざわりの良い言葉だけを並べても、若者には「一貫性の欠如」として軽蔑されるだけである。
若者が彼らを見限っているのは、その思想の中身以前に、自分たちの都合で「正しさの基準が動く」という不誠実さに対する強烈な不信感なのだ。
政治家の信頼というものは、他者を切り裂く言葉の鋭さによってではなく、自らを律する「基準の安定感」によってのみ積み上がるのである。

理由④:「言論の自由」と「多様性」を掲げながら、異論を徹底的に排除する不寛容

若い世代が彼らに覚える違和感の中で、最もグロテスクに映っているのがこの自己矛盾だ。
「言論の自由」や「多様性」を誰よりも声高に掲げている人間が、自分たちと少しでも異なる意見に対しては、最も狭量で攻撃的になるという皮肉である。
彼らの物事の切り分け方は、常に「完全な味方か、さもなくば絶対悪の敵か」の二元論だ。
「敵」と認定した相手には、政策の是非ではなく人格そのものを執拗に攻撃する。
本来、多様性を尊重するならば「そういう考え方もあるよね」と異論の存在を許容するスペースが必要なはずだが、彼らの中には常にガチガチの“正解”しかないのである。
その正解のラインから少しでも外れれば、「無知」「不勉強」「アップデートできていない」と即座にレッテルを貼り、集団で叩き伏せる。
創価学会などで特に重視される手法、「折伏(しゃくぶく)」そのものである。
これはもはや自由な討論などではなく、単なる「思想警察」による同調圧力だ。
個人の素朴な価値観や宗教的な見解をSNS等でつぶやいただけでも、誰かが「あいつは敵だ!」と指差せば、一斉に袋叩きにして社会から抹殺しようとする。
それは、キャンセルカルチャーの乱用だ。
議論を深めるのではなく、自分たちの視界から異物を「排除」することに血道を上げる。
そんな息苦しい界隈に、若者が寄り付くはずがない。
ゆとり世代以降の若者は、我々シニア世代より、学校教育を通じて「異なる意見を持つ相手とも、対話を通じてなんとか落としどころを探る」という訓練を積んできている。
そのフラットな感覚で育った彼らからすれば、意見が違うだけで相手を吊るし上げるような排他的なスタイルは、ひたすら時代遅れで野蛮な振る舞いにしか映らない。
彼らがやっていることは「自由の擁護」ではなく、自分にとって不快な言葉を締め出す「言論の管理」だ。
自由とは、自分の発言が守られる権利であると同時に、“自分にとって死ぬほど不快な意見の存在”をも許容する義務のことである。
その義務を無視して「正しさ」を独占しようとする限り、彼らが「寛容」を語る資格は永遠ないのだ。

理由⑤:アップデートではなく「リセット(破壊)」を夢見る、時代遅れの破滅願望

そして最後に指摘しておきたいのが、彼らの根底にうっすらと横たわっている「破滅的な思想」の影だ。
共産主義や社会主義の原点には、多かれ少なかれ「革命」——つまり、既存の体制を一度完全にぶっ壊して、ゼロから新しい秩序を作るという発想がある。
問題は、この“破壊の論理”や“リセット願望”が、現代の野党政治における「何でも反対」の姿勢に色濃く引き継がれてしまっていることだ。
彼らは、現体制の「改善」ではなく、まず「崩壊」を前提にして政治を語りたがる。
たとえば、保守色の強い高市早苗氏のような政治家が政権の座に近づくと、「すぐに戦争になる!」「日本経済は崩壊する!」「民主主義の終わりだ!」といった極端な終末論的な最悪シナリオをヒステリックに叫ぶ。
しかし、現実の国家運営は地道な連続性の上に成り立っており、アニメや映画のようにある日突然すべてがひっくり返るようなことは起きない。
破局の予言ばかりを叫び続ける姿は、有権者からすれば「社会への警鐘」ではなく、単に「政権交代を起こすために恐怖を煽っているだけにしか見えないのだ。
その結果、彼らの政治の重心は、社会を「どう良くするか」ではなく、与党を「どう倒すか」でしかない。
与野党で合意できる現実的な改善策を一つひとつ積み上げる泥臭い努力よりも、スキャンダル追及や失言探しといった「揚げ足取り」ばかりを行う。
批判は権力監視の機能として確かに不可欠だが、実行可能な代替案が伴わない批判は、ただのノイズでしかない。
若者が支持するのは「全か無か」より「部分的な合意」 でる。
この点において、国民民主党の玉木雄一郎代表のスタンスは、若者のニーズを正確に捉えていた。
彼は「政権奪取そのものが目的ではない。自分たちの政策が採用されて生活が良くなるなら、与党であれ誰であれ協力する」と繰り返し述べている。
結果責任を重んじ、一致できるところは協力して「部分的な合意」を積み上げる。
このコスパ・タイパの良い現実的な姿勢こそが、「全か無か」の不毛なイデオロギー対立に辟易している若い世代の目に、極めてまともで建設的に映ったのだ。
野党の「すべてを倒すか、すべてを守るか」という昭和の革命ごっこに依存している限り、政治はワイドショーのネタにはなっても、私たちの明日の暮らしは1ミリも良くならない。
現代の日本に必要なのは、既存のシステムをぶっ壊すことではなく、今のシステムを少しずつマシにしていくための「アップデートの設計図」なのである。

理由⑥:「憲法・安保・原発」を神格化し、一切の議論を拒絶する“宗教化”

日本のリベラル左派の言説を見ていると、ある種の「アンタッチャブルな聖域」が存在することに気づく。
彼らの間では、以下の三点がまるで絶対に疑ってはならない「三大教義」として君臨している。
憲法改正は絶対反対(一言一句変えてはならない)
安保法制は違憲であり、即刻廃止すべき
原発はただちにゼロにする
この「三大教義」に対して少しでも現実的な異論を差し挟もうものなら、即座に「お前はリベラルではない」「右傾化している」と糾弾され、界隈から村八分にされる空気が蔓延している。
これはもはや政治的スタンスというより、狂信的な宗教そのものである。
しかし、ちょっと待ってほしい。本来のリベラルとは、「特定の結論を死守する」硬直した立場ではないはずだ。
時代や環境の変化に合わせて「人々の自由と安全、そして幸福をどう最大化するか」を、データと理性に基づいて柔軟に模索する態度こそが、リベラリズムの真髄である。
たとえば、激変する東アジアの情勢下で、国民の生命と自由を守るために憲法の条文を現実に即してアップデートする方が合理的だと判断される局面があるならば、改正を議論することは決して「反リベラル」ではない。
エネルギー政策にしても同じだ。終わりの見えない円安や資源高騰、さらにはAI普及に伴う莫大な電力需要を前に、供給の安定性や国民の電気代負担、最新の安全技術を踏まえて原発稼働を再評価することは、政治として当然の責任である。
「結論」をあらかじめ固定し、そこに至る「検証の余地」を完全に閉ざしてしまう態度は、それ自体が極めて非リベラルであり、知的な怠慢に他ならない。
さらに致命的なのが、過去の自らの言説に対する総括のなさだ。
安保法制の議論の際、彼らは「これが成立すれば日本は戦争に巻き込まれる」「徴兵制が復活する」といった断定的な破滅の予言を声高に叫んだ。
しかし、現実に法案が成立して何年も経つが、そんな事態は起きていない。
政治の評価とは、イデオロギーの純度ではなく「現実に起きた結果」と「積み上げた検証」によって行われるべきものだ。
自らの予言が外れた事実を謙虚に受け入れず、しれっと次の「反対運動」に移行するだけの姿勢では、議論の信頼性など生まれるはずがない。
結局のところ、時代がどれほど変わっても、取り巻く環境が激変しても、自分たちの結論が1ミリも動かないのであれば、それはもはや「理念」ではなく単なる「教条(ドグマ)」だ。
若い世代が彼らと距離を置いているのは、「何を主張しているか」という中身以前の問題である。
「最初から結論が決まっていて、議論の入り口すら閉ざされている」という、その思考の硬直っぷりに呆れ果てているのだ。
自由な議論を守るために掲げたはずの理念が、今や「議論そのものを禁じるための聖域」へと成り下がっている。いまこの国に求められているのは、昭和から持ち越した「固定された答え」を押し付けることではなく、激動の時代を生き抜くための「変化に耐えうる思考の柔軟さ」なのである。

理由⑦:口先だけの「お題目」で、実行力も成功体験もない

「弱者を守る」「ジェンダー平等」「多様性の尊重」――。
日本のリベラル左派が掲げるスローガンは、どれも耳障りが良く、道徳的には100点満点だ。
しかし、有権者、とりわけシビアな現実を生きる若い世代が政治家に求めているのは、「美しい言葉」ではなく「何を実現したか」という血の通った結果である。
日本のリベラル左派が掲げる「ジェンダー平等」や「多様性」は、言葉ばかりが先行し、実態がまったく伴っていない。
たとえば、高らかに「ジェンダー平等」や「多様性」を謳いながら、いざ党の執行部や、最大の支持母体である労働組合(連合)の幹部層を見渡せば、圧倒的多数を占めているのは中高年の男性たちだ。
自分たちの身内の組織運営すらアップデートできていないのに、社会全体の構造を変えられると本気で思っているのだろうか。
そんな底の浅い矛盾は、若者たちにはとうの昔に見透かされているのだ。
「ジェンダー」も「多様性」も、彼らにとっては選挙用ポスターの飾りにすぎないことをみんな見抜いているのだ。
「経済と雇用」という最も重要な指標においても、彼らの無力さは際立っている。
今の20〜30代は、民主党政権時代の「就職氷河期・超円高」の冷たさと、その後のアベノミクスによる「売り手市場への転換という雇用の劇的な回復」を、歴史ではなく自分たちのリアルな体験として知っている。
左派野党が政権を担った、あるいは影響力を持った時期に、若者の生活を底上げするどんな具体的な制度を残したのか?
「アベノミクスは失敗だ」と口で批判するのは簡単だが、それに代わる、あるいはそれを凌駕する「生活改善の成功体験」を彼らは何ひとつ行っていない。

さらにリベラル左派を追い詰めたのが、国民民主党が見せつけた「野党でも結果は出せる」という事実だ。
「103万円の壁」の抜本的な見直しや、ガソリン価格の引き下げなど、国民民主党は「反対」と叫んでプラカードを掲げるのではなく、与党と泥臭く交渉し、部分的であれ実際の制度や運用を動かしてみせた。
この「実装の成功体験」は、長年「野党だから今は政策を実現できない。だから政権交代を」と言い訳ばかりしてきた従来型リベラル左派の無能さを、残酷なまでに浮き彫りにしてしまった。
要するに、現代の政治は「誰が一番美しいポエムを詠めるか」という“宣言競争”ではない。
社会のバグをどう修正し、いつまでに実行するのかという“実装競争”なのだ。
行動と結果の裏打ちがない理念は、信念ではなく単なる「寝言」である。
工程表も期限も評価指標も持たず、ただ「反対」を叫ぶだけの勢力に、自分の大切な人生や明日の生活を預けようと思う若者など、この国にはもういないのだ。

結論:「正しさ」に引きこもり、アップデートを拒んだ日本型リベラルの必然的な終焉

ここまで7つの視点から、いわゆる「日本型リベラル」が若い世代から見放され、急速に支持を失っている理由を見てきた。
現実を無視した理想論、致命的なまでの上から目線、ご都合主義のダブルスタンダード、異論を許さない不寛容、破滅願望、教条主義、そして何より「口だけで一切の実績を伴わない」という無能さ。 彼らが没落した原因は、決して「有権者が愚かだから」でも「社会が右傾化したから」でもない。
単に、彼ら自身が現代の複雑な社会課題に向き合う知性と覚悟を放棄し、自分たちだけが気持ちよくなれるエリアに引きこもってしまったからだ。
これは60年安保で敗北したかっての若者の慣れの果てである。
若い世代は、とうの昔に彼らを見切っている。 「反対」と書かれたプラカードを掲げても明日の給料は上がらないし、政敵をSNSで論破してマウントを取ったところで、日本の安全保障環境は1ミリも改善しない。
情報と結果に対してシビアな現代の有権者が求めているのは、昭和から続く「革命ごっこ」でも、上から目線の「道徳のお説教」でもなく、今日より明日を少しだけマシにするための「実効性のあるシステム改修」なのだ。
もはや日本のリベラル左派に対し、「もっと有権者の声に耳を傾けるべきだ」とか「現実的な対案を出すべきだ」といった改善の処方箋を提示することすら、完全に時間の無駄だろう。
「多様性」や「社会のアップデート」を誰よりも声高に他人に要求しながら、自らの組織構造や硬直化した思想をアップデートすることは頑なに拒絶し続ける。
そんな自己矛盾の塊のような勢力に、自浄作用など期待できるはずがない。
日本のリベラル左派は、もはやその歴史的役割を完全に終えたのだ。
彼らは今後も、自分たちを理解しない有権者と世間を「無知だ」と呪いながら、先細りしていく高齢の支持者たちと共に、純度の高いイデオロギーの密室で静かに自滅し、消滅していくだろう。
それは決して日本の政治にとっての悲劇ではない。時代遅れで機能しなくなった古いOSが、新しい環境に適応できずに市場から退場させられるという、民主主義における極めて健全な「自然淘汰」なのだ。
私たちは彼らに一切の未練を抱くことなく、ただ「長い間、お疲れ様でした」と背を向け、次の新しい現実的な政治の形を模索していくべきである。

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