選ばれたかった男 ― 麻原彰晃誕生までの物語
--前編ーー

プロローグ:怪物はいかにして生まれたのか
1955年(昭和30年)3月2日。未明の、まだ星の残る時刻だったという。熊本県八代市高小原(たかおわら)町。球磨川が有明海へ注ぐ、干拓でひらかれた平野の町。まだ戦後の傷跡と面影が色濃く残る地方都市の一角で、のちに日本社会を奈落へと突き落とす男児が産声を上げた。 本名、松本智津夫。のちに麻原彰晃と名乗ることになる少年である。
松本の家は、極限の困窮のなかにあった。祖父の代に朝鮮半島から引き揚げ、縁者を頼って八代に居を構えた父は、この地で小さな畳店「松本畳店」を営む職人となった。しかし、時代の変化とともに畳の需要は年々細り、経営は常に火の車だった。一家には多くの子どもがいた。智津夫は、そんな過密な家庭の「七男」として生まれた。その上に兄が6人、さらに姉や妹もいる。9人の子どもを抱えた一家の暮らしは、文字通り明日の米にも事欠く、食べていくだけで精一杯のどん底だった。のちに盲学校の教師が「あれほど貧しい家は見たことがない」と語ったほどの困窮ぶりだったと伝えられている。
両親は家計を支えるため、朝から晩まで休むことなく泥にまみれて働きづめだった。幼い智津夫の世話をしたのは、もっぱら年上の兄や姉たちである。彼にとって親とは、肩車をしてくれる存在というより、夜遅くに疲れて帰ってくる背中だった。
しかし、松本家にのしかかった真の悲劇は、経済的な困窮だけではなかった。生まれたばかりの智津夫には、重い視覚障害があった。左目は先天性の緑内障でほとんど光を捉えなかった。けれども右の目には、1,0に近い、世界をはっきりと見るに足る視力が残されていた。彼は、見えたのである。世界を、はっきりと。
兄弟のなかには、全盲の長兄がいた。弱視の弟もいた。一家にとって目の障害は他人事ではない、暮らしの底に絶え間なく横たわる影だった。家族は常に、視えない未来への暗い不安と諦念を抱えていた。
だが、幼い智津夫は、周囲の悲観を跳ね返すかのように、異様なほど活発で、かつ奇妙な早熟さを見せる子どもだった。いたずらが過ぎて農具を壊し、兄や姉に尻を叩かれることもしばしばだった。テレビのアニメに夢中になると、尊敬していた長兄にさえチャンネルを譲らなかったという。 彼は「右目が少しだけ視える」という自らのアドバンテージを過剰なほどに自覚していた。暗算が得意で、耳から入る情報の記憶力は抜群。大人の会話の裏を突くような頭の回転の速さがあった。近所のおとなたちは、 「松本とこの七男坊は、身体は不自由だが、恐ろしく利発な子だ(賢か)」 と口を揃えた。
貧しさの中で、誰も自分を特別扱いしてくれない家庭環境。その中で智津夫は、「自分は兄たちとは違う」「自分は賢く、特別な存在なのだ」という肥大した自尊心を、幼い胸のうちで唯一の心の拠り所として育てていった。
しかし、その脆いガラスの自尊心は、わずか6歳にして、あまりにも冷酷に粉砕されることになる。
1961年(昭和36年)。智津夫は地元の小学校に入学した。ようやく同世代の「健常児」たちと同じスタートラインに立てた、そう思ったのも束の間、その年の秋に彼の生涯を決定づける運命の断頭台が落とされる。 熊本県立盲学校への転校。 本人が望んだことではなかった。決めたのは家族、とりわけ、すでに盲学校へ通っていた全盲の長兄だったと言われている。智津夫の右目とて、いつ光を失うか分からない。そうなる前に、鍼や按摩の技を身につけさせ、一人でも生きていけるようにしてやりたい。それは、弟の行く末を案じた兄なりの愛情だった。
そしてもう一つ、動かしがたい現実があった。盲学校は学費も寄宿舎の費用もすべて無料だったのである。九人の子を食わせるだけで精一杯の松本家にとって、それは口減らしとして見過ごせない、あまりにも大きな経済的事情だった。
だが、わずか6歳の少年に、そんな大人の経済事情や親心が理解できるはずもなかった。ある日突然、生まれ育った家を追われ、見知らぬ熊本市の寄宿舎へと放り込まれた智津夫の胸には、ただ一つの感情だけが、深く激しく刻み込まれていく。
――僕は、家にいちゃいけない邪魔者だったんだ。親に、捨てられたんだ。
その疎外感は、週末の寄宿舎で決定的な血肉となった。金曜日や土曜日の午後になると、寄宿舎の玄関には、わが子を迎えに来る家族の姿であふれた。父親の大きな肩にまたがって歓声を上げる子。母親に手を引かれ、嬉しそうに一週間の出来事を話しながら帰っていく子。だが、智津夫を迎えに来る足音だけは、待てど暮らせど響かなかった。
決して、家族に愛情がなかったわけではない。貧しかった。八代から学校までは遠かった。迎えに行く余裕など、どこにもなかった。それだけのことだったのかもしれない。しかし、少年の乾いた心は、そんな大人の理屈では納得しなかった。
人気の絶えた、静まり返る寄宿舎。夕暮れ時の赤黒い光が差し込む、静かな廊下。窓の外から流れてくる、よその子どもたちの楽しげな笑い声。そのただなかに一人取り残された少年は、自分だけが世界から見捨てられたような深い暗闇の中にいた。
やがて、その寂しさは別の感情へと変わっていく。 ドス黒い「怒り」だった。「誰も僕を愛してくれないのあるなら、力でねじ伏せてやる」
盲学校という特殊な環境の中で、智津夫はすぐに、ある決定的な事実に気づいた。盲学校の生徒の多くは、全く光を失った全盲か、それに近い重度の障害者だった。ある証言によれば、智津夫のいた学級で世界をはっきり見ることができたのは、ほとんど彼ただ一人だったという。彼らには視えない段差が、自分には視える。彼らには判別できない人の動きが、自分には読める。校内だけではない。街へ出れば、その差は神と凡夫ほどに大きくなった。
智津夫はすぐに、その優位性に気づき、一切の躊躇なく、残酷に利用し始めた。見えない級友たちの手を引き、案内役を買って出る。そうして彼らを従えて街へ繰り出すと、智津夫は「小さな独裁者」へと豹変した。 「俺が視てやってるんだから、言うことを聞け」
買い物をさせ、自分の分の食事代まで払わせる。それだけにとどまらず、同級生たちに「用心棒代」や「案内料」として、日常的に金そのものを要求するようになった。言うことを聞かない相手や、全盲のくせに自分に反抗的な態度を取る者がいれば、容赦なく拳を振るい、あるいは言葉の暴力で徹底的にいたぶった。恐ろしいことに、彼は10代前半にして、他者の弱みに付け込み、マインドコントロールと恐怖によって人間を支配する術(すべ)を、本能的に学習していたのである。
後年、彼を知る教師たちは、こう語ることになる。麻原がオウムでやったことは、盲学校でやっていたことの延長にすぎない、と。
なぜ、そんなふるまいに走ったのか。単なる生まれつきの悪意だけでは説明できない。寄宿舎で味わった絶対的な孤独、満たされることのなかった強烈な承認欲求、そして家族へのわだかまり。それらが複雑に絡み合い、自分より弱い立場の者を支配し、従わせることでしか、彼はもう、自分の価値を確かめられなくなっていたのかもしれない。
そしてもう一つ。この頃から智津夫には、異様なまでの「金銭への執着」が芽生え始める。級友から金を集める。物を譲らせる。利を得る手立てを、絶えず頭のなかで巡らせる。金を握ること、それは彼にとって、自分を見捨てた親や、自分を哀れむ世間に対する復讐の道具だった。
まだ子どもでありながら、彼の頭の中では「人を恐怖で動かすこと」と「効率よく金を搾取すること」が、分かちがたく結びついていた。後年、オウム真理教で繰り返されることになる、信者への支配と巨額の献金。そのシステムの萌芽は、すでにこの熊本の盲学校の、薄暗い寄宿舎の一室で完全に発芽していたのである。
しかし当時の智津夫は、まだ教祖ではない。ただの、一人の少年だった。 誰よりも認められたかった。誰よりも特別でありたかった。そして心の奥底のいちばん深いところでは、ずっと、誰かに愛されたかった。
その願いは、しかし、叶わない。むしろ成長するにつれ、彼は自分が特別な存在ではないという冷たい現実を突きつけられていく。その最初の試練が、すぐそこまで来ていた。
それは、「人の上に立ちたい」という抑えがたい野心と、「誰からも選ばれない」という冷徹な現実とが、真正面からぶつかり合う日々の始まりだった。
第二章:認められたい
熊本県立盲学校での生活が小学部高学年から中学部、そして高等部へと進むにつれ、松本智津夫の胸のうちで、一つの思いがいっそう強く、具体的で強固な形を成して膨らんでいった。
認められたい。 人の上に立ちたい。 自分は特別な存在なのだと、誰かに証明したい。 自分は、こんな障害者だらけの狭い学校で燻っているような器ではない。五体満足な「健常者」どもの頂点に立つべき、特別な天才なのだ。その肥大化した自己愛と渇きを証明するため、彼はあらゆる機会を捉えて「権力」にしがみつこうとした。
最初の明確な挑戦は、小学部五年生のときに訪れた。智津夫は、児童会長の選挙に立候補した。どうしても「一番」という肩書が欲しかった。全校生徒から公に認められ、羨望の眼差しを向けられる全能感を味わいたかった。
しかし、現実の智津夫は決して人気者ではなかった。むしろ、右目が視えることを武器に全盲の生徒を小突き回し、金を巻き上げる彼は、周囲から激しく嫌悪され、恐れられる存在だった。
人望がない――それを自覚していた智津夫が取った行動は、極めて狡猾、かつ少年らしからぬ泥臭いものだった。彼は寄宿舎で密かに入手した菓子や日用品を、有権者である生徒たちに配って票を集めようとした。物で票を買う――のちの汚職政治家さながらの買収工作であり、少年なりの、けれど切実な選挙運動だった。
「俺に投票すれば、いい思いをさせてやる」
手応えはあったはずだった。しかし、開票結果は惨敗だった。菓子を受け取った生徒たちも、投票箱の前では冷徹だった。恐怖と物欲で支配しようとする智津夫に、誰も心からの敬意など抱いていなかったのだ。「選ばれなかった」という冷酷な事実を突きつけられた智津夫は、自室で激しく荒れ狂い、後年、当時を知る関係者が「かなり落ち込んでいた」「見ていられないほど深く落ち込んでいた」と証言するほどのショックを受けた。
智津夫には、理解できなかった。なぜ、これほど優れた自分が選ばれないのか。なぜ人々は自分の値打ちを認めないのか。その屈辱と悔恨は、彼の胸の奥でドス黒いマグマのように溜まり続けていった。
それでも彼は、人々の注目を集めることを諦めなかった。むしろ、別のかたちでそれを求めた。寄宿舎の仲間を集めては、歌を披露するのである。空き缶をマイク代わりに握りしめ、当時流行していた西城秀樹や尾崎紀世彦の曲を、声を張りあげて歌った。「松本智津夫ショー」と、彼自身が名づけたその催しを、彼は何度も開いた。その瞬間だけは、すべての目が自分に注がれ、すべての耳が自分の声を聴いていた。彼は、舞台の中央に立っていたかったのだ。
やがて中学部、高等部へと進むと、智津夫は肉体的な強さをも求め、柔道部に打ち込むようになる。 体格はがっしりとしており、稽古にも熱心だったため、瞬く間に頭角を現した。勝負の世界は、選挙とは違って明快だった。強い者が勝ち、弱い者が這いつくばる。畳の上では、自分の力だけが正義だった。柔道で相手を叩きつける瞬間だけは、自らの内に渦巻く劣等感を忘れ、万能感に浸ることができた。
だが、肉体の強さだけで得られる満足など、彼の底なしの承認欲求を満たすにはあまりにも小さすぎた。智津夫はふたたび、人の上に立つ機会へと手を伸ばす。生徒会長の選挙、そして寮長の選挙。機会があれば、彼は熱心に立候補した。今度こそ勝てる、と思った。
だが、結果は前回と変わらなかった。落選。また、落選。何度挑んでも、彼は選ばれなかった。
級友や教師たちは、彼の頭の良さは認めていた。行動力もあった。だが、人望は別だった。 恐れられることと、慕われることは違う。力で従わせることと、心から信頼されることも違う。 その二つの違いを、智津夫は理解できなかった。あるいは、自尊心が邪魔をして、理解したくなかったのかもしれない。
そして敗れるたび、彼は同じ言葉を口にするようになる。 「これは、陰謀だ。教師たちが、裏で自分を落そうとしているのだ」
自分が選ばれないのは、自分に足りないものがあるからではない。誰かが、自分を陥れているからだ。その思考の癖は、のちに巨大な教団を率いる男のなかで、底知れぬ被害妄想へと育っていくことになる。だがこの頃はまだ、敗北を呑み込めない少年の、痛々しい言い訳にすぎなかった。
度重なる落選のなかで、彼の内側に一つの確信が芽生えていく。
「人は、正しさや優しさで動くのではない。圧倒的な強さと恐怖の前にしか跪かないのだ」
その発想は、空虚な選挙の票読みからではなく、彼が現に手にしていた力――目の見えない級友たちを意のままに従わせる、あの暗い支配の感触から、確かめられていった。説得ではなく、恐怖。それが人を動かすのだと、彼は身をもって覚えていった。この考えは、後の人生に、計り知れない影を落とすことになる。
生徒会長という小さな権力に拒絶された智津夫は、ついに学校の外、すなわち「一般社会の頂点」へと視線を狂わせるようになる。彼が渇望したのは、「医学」の道だった。
盲学校には、卒業後に鍼や灸、按摩の技を学び、手に職をつけて自立していく進路が整えられていた。視覚に障害を抱える者が、世間で生きていくための、堅実な道である。同級生たちの多くは、それを現実的な糧として真摯に学んでいた。 だが、智津夫はそんな「地道な自立」を、盲学校の生徒としての枠に収まる行為として激しく見下し、同時に恐れてもいた。「俺は、こんなところで一生、他人の身体を揉んで終わる男(平凡な分際)じゃない」
彼が標的に定めたのは、超難関とされた「熊本大学医学部」への進学だった。マッサージ師ではなく、医師。白衣をまとい、生殺与奪の権限を握り、人に頭を下げられる社会的エリート。それになれば、自分を見捨てた家族も、自分を蔑んだ世間も、すべてを見返せる。誰もが自分に頭を下げ、尊敬の念を抱くはずだ。
そこからの智津夫の集中力は凄まじかった。他の生徒たちが寝静まった深夜の寄宿舎、わずかに視える右目だけを頼りに、拡大鏡を使って参考書を睨みつけた。視神経を酷使する激しい頭痛に耐えながら、狂ったように知識を脳内に詰め込んでいった。 努力しなかったわけではない。彼は人生のすべてを賭けて、本気で「医師」という社会的強者の座を毟(むし)り取ろうとしていた。
19歳のときには、寄宿舎の自治会で過激な主張を繰り返し、その場を大混乱に陥れたという。秩序を乱すことそのものに、自分の存在を刻みつけようとするかのように、彼の鬱屈は外へと噴き出し始めていた。
しかし、現実はどこまでも冷酷だった。盲学校の教育カリキュラムと、一般の国公立大学医学部の受験内容との間には、個人の努力だけでは到底埋められない、絶望的な格差(情報量・教材の不備)が存在していたのだ。模擬試験の結果が出るたび、突きつけられるのは「E判定」の冷たい現実。焦りと苛立ちが、彼の精神をガリガリと削っていく。
そして、運命の受験当日。一日目の試験を終えた段階で、智津夫は自らの限界を悟ってしまった。手応えは皆無。周りの受験生たちが眩しく、そして自分が酷く惨めな存在に思えた。二日目の朝、智津夫は試験会場に現れなかった。
勝てない勝負からは逃げる。あるいは、不合格という決定的な烙印を押される前に自ら舞台を降りることで、「本気を出さなかっただけだ」と言い訳を作ったのか。真相は本人にしか分からない。だが、結果はひとつだった。彼はまたしても、完全に敗北したのである。
医師への道は永遠に閉ざされた。
1975年(昭和50年)3月、20歳になった智津夫は熊本県立盲学校を卒業した。13年に及んだ寄宿舎の暮らしが、ようやく終わった。その間、両親が彼を訪ねてくることは、ついに一度もなかったと伝えられている。
手にしたのは、鍼灸・按摩マッサージ指圧師の免許だった。それは、彼がかねて軽んじていた「手に職をつけて生きる」という、まさにその道の入口だった。皮肉なことに、現実が彼に差し出した居場所は、彼がもっとも遠ざかりたかった場所だったのである。ふたたび「何者でもない側」の人間として、社会へ放り出された。
しかし、智津夫の目は、すでに別の方角を見意据えていた。毛沢東や田中角栄のように、巨大な権力を握り、歴史を動かした男たちに彼は強く惹かれていた。彼らのように、自分も高みへ昇りたい。誰よりも大きな力を、手にしたい。
東京だった。 東京大学。 そして、政治家。 さらにその先――内閣総理大臣。
誰よりも高い場所へ。誰よりも大きな権力を持つ存在へ。 選ばれなかった少年は、まだ諦めていなかった。むしろ、敗北を重ねるたびに、その渇望はかえって深く、暗く、研ぎ澄まされていった。「待っていろ、東京」
青年は、日本の中心地へと向かう列車に飛び乗った。だが、彼を待ち受けていたのは、栄光の階段などではなかった。大都会・東京という巨大な底なし沼で味わう、これまでとは比べものにならない、もう一段深い「挫折の連続」だった。
第三章:挫折の連続
1975年(昭和50年)の春。 熊本県立盲学校を卒業した松本智津夫は、大きな決意を胸に、日本の首都・東京へと降り立った。
目指すは、日本最高峰の学歴の頂点である「東京大学文科一類(法学部)」。そして、その先にある政治家への道。幼い頃から抱き続けてきた「選ばれたい」という願いは、いまや明確な野心へと姿を変えていた。当時の東京は、高度経済成長の狂騒が落ち着きを見せ、過酷な受験競争と管理社会の波が押し寄せる、冷徹な巨大都市へと変貌していた。智津夫は都内の予備校に籍を置き、狭い四畳半のアパートで一人、再び受験勉強を開始した。国を動かし、法律を作り、一億の国民を支配する「内閣総理大臣」になる。彼は、その未来を本気で信じていた。
だが、地方の盲学校という井戸の中から飛び出した彼が目撃したのは、全国から集まった本物の「天才」や「秀才」たちの姿だった。五体満足で、幼少期から英英才教育を受け、冷徹に合格のメカニズムを叩き込まれたライバルたち。彼らにとって、智津夫など受験の泡沫(うたかた)に過ぎなかった。
わずかに視える右目をこすり、拡大鏡を覗き込む日々。しかし、模擬試験の判定や成績順位表に、彼の名前が上位に載ることはついになかった。周囲との、埋めようのない絶望的な差。「自分は選ばれた天才ではないのかもしれない」という恐怖に、彼の繊細で傲慢な精神は耐えられなかった。東大の門は開かず、わずか半年ほどで、智津夫は東京の受験戦線から敗走するように熊本へ引き揚げてしまう。東大受験は、挑戦の形すら成さずに霧散した。
熊本に戻った智津夫は、すでに地元で開業し、成功を収めていた実兄の鍼灸院で働き始めた。だが、その胸に渦巻くのは、強烈な敗北感と鬱屈だった。 本来なら東京でエリートの階段を上っているはずの自分が、なぜ田舎の治療院で他人の身体を揉んでいるのか。「こんなはずでは、なかった」という苛立ちは、周囲への傲慢な態度となり、やがて最悪の形で爆発する。
1976年(昭和51年)、智津夫は治療院の従業員との些細な口論から、激しい暴行事件を起こす。相手に全治数週間の怪我を負わせ、警察に身柄を拘束された。判決は、罰金刑。 前科一犯。 総理大臣を夢見た青年の履歴書に、最初の消えない汚名が刻まれた瞬間だった。理想と現実の落差は、開いていくばかりだった。それでも、彼の内の怪物は首を振らなかった。「まだだ。俺の人生はこんなところで終わらない」
翌1977年(昭和52年)、智津夫はふたたび東京を目指す。東大受験への、執念の再挑戦だった。今度こそ、と誓っていた。だが、結果は変わらなかった。東大への道は、二たび冷酷に閉ざされた。
この頃から、智津夫は表向き、東大の話をしなくなったという。諦めたように見えた。だが、心の奥では違った。夢を捨てたのではない。現世のシステムが自分を選ばないのなら、システムそのものをバイパスする「別の抜け道」を探し始めたのだ。
そんな不安定な浪人暮らしのなかで、彼は一人の女性と出会う。松本知子。のちにオウム真理教の最高幹部として教団のナンバー2に据えられる、彼の妻となる女性だった。二人は惹かれ合い、出会った翌年の1978年に結婚する。智津夫は、まだ22歳の浪人生だった。やがて二人は千葉県船橋市に居を構え、子宝にも恵まれる。
ここだけを切り取るなら、ごく普通の、つつましい家庭だった。もしこのとき、彼が平穏な家庭生活に満ち足りていたなら。もし、その小さな幸福を受け入れていたなら。その後の歴史は、まったく違うものになっていたかもしれない。
だが、智津夫の底なしの承認欲求にとって、一介の鍼灸師という現実などは、耐え難い「凡庸の監獄」でしかなかった。彼は自宅のベランダに看板を掲げ、「松本鍼灸院」を開業する。患者は少しずつ増え、暮らしも安定し始めたが、心は満たされない。 医師にはなれなかった。東大にも入れなかった。政治家への道は、なお遠い。
その焦りと鬱屈を埋めるように、彼は東洋医学の枠を超え、別の世界へと関心を向けていく。中国の占術、運命学、四柱推命、仙道、気功、東洋思想の解説書――。夜になると、彼の自宅には奇妙な活気が満ちるようになった。予備校時代の知人や、その紹介で集まった風変わりな学生たちが、智津夫を囲むようになったのだ。その数、多い時には30人近く。
薄暗い部屋の中心で、智津夫は胡坐(あぐら)をかき、朗々とした声で語りかけた。 「私は今、こうして鍼灸師をしているが、これは仮の姿だ」 「私には天から与えられた、大いなる使命がある」 「この濁った国を、根底から変えなければならない」
まだ宗教団体の体を成してはいなかった。しかし、彼はすでに自らを「隠された特別なる者」として演出し始めていた。集まった若者たちの多くは、真面目で、それゆえに近代社会の息苦しさに悩む理想主義者たちだった。彼らは智津夫の、根拠はないが圧倒的な確信に満ちた言葉に、じっと耳を傾けた。 智津夫は、体中の血が沸き立つような全能感を覚えていた。自分の言葉ひとつで、他人が目を輝かせ、自分を特別な存在として仰ぎ見る。選挙で落選し、受験で拒絶された過去のすべてが、その快感の中で洗い流されていくようだった。
「現世の権力がダメなら、実業で、金で世界をねじ伏せてやる」 承認欲求のベクトルは、次に「巨万の富」へと向かった。時代は、空前の健康ブーム、オカルト・ダイエットブームの黎明期。「体に良いもの」をうたう商いが、次々と人々の財布を開かせていた。智津夫はその波を敏感に嗅ぎ取る。
1980年(昭和55年)。彼は健康食品の販売に乗り出すが、ほどなく健康保険金の不正請求問題が発覚し、670万円もの多額の返還を求められる。最初のつまずきだった。
それでも彼は引かなかった。翌1981年(昭和56年)、船橋市高根台に漢方薬局「アジア堂」を開業する。商いは、当たった。耳ツボ療法や「若返りの秘薬」と称する独自の漢方薬を売り出し、言葉巧みに客の不安を煽って高額な商品を売りつける商才を発揮した。アジア堂は瞬く間に繁盛し、月に数百万円の現金を叩き出すようになった。高級外車を買い、新居を購入し、ついに成功者の仲間入りを果たしたかに見えた。
だが、その栄華も一瞬の砂上の楼閣だった。他人の弱みに付け込んで金を貪る手法は、すぐに破綻を迎える。彼が健康に効くとうたって売っていたのは、自ら調合した、無許可の「薬」だった。4000万円もの巨額の金を稼ぎ出したが、買った者たちは口々に「効き目がないどころか、腹を下した」と訴えた。
告発を受け、1982年(昭和57年)6月22日。智津夫は薬事法違反で逮捕される。下された罰は、20万円の罰金刑だった。
またしても、だった。 ようやく成功を掴みかける。だが、失う。また掴みかけては、また失う。彼の人生は、いつもその残酷なループの繰り返しだった。掴んだものは、いつも指の隙間からこぼれ落ちていった。
釈放後、家庭環境は地獄と化した。収入は途絶え、幼い子供たちを抱えた妻・知子は許容量をはるかに超える心労を抱え込み、精神のバランスを崩していく。夫婦の怒号が家の中に響き渡り、外で愛想よく笑った日に限って、家の中では些細なことに激しく荒れた。ぬくもりであるはずの家庭の底にも、暗く冷たい影が差し始めていた。
そんな中、智津夫は現実の生き地獄から逃れるように、修行へと没頭していった。ヨガ、瞑想、気功、神秘思想。現実社会では何者にもなれなかった男が、精神世界の中でだけは特別な存在になれる気がしたのである。そこには学歴も、受験も、前科もなかった。必要なのは、ただ「自分は深い境地に達しつつある」と信じることだけだった。
そして、ある日のことだった。 深い瞑想のさなか、背骨の底(尾てい骨)のあたりから頭頂部へ向かって、灼けつくような強烈なエネルギーが一気に駆け上る――。のちに彼自身が、自らが解脱(げだつ)した証拠として狂信的に喧伝することになる神秘体験、「クンダリニー覚醒」であった。
その恍惚の中で、智津夫は涙を流しながら笑った。「そうだ、俺は間違っていなかった。俺は、本当に神に選ばれた人間だったんだ」
東大受験の失敗。事業の破綻。逮捕。家庭の不和。これまで味わってきた、ありとあらゆる挫折。そのすべてを、一息に塗り替えてしまうほどの高揚感だった。これまでの悲惨な過去のすべてを、大いなる覚醒のための「試練」として脳内で都合よく書き換えた物語が、彼の現実を完全に侵食した。
現実社会では敗者だった男が、精神世界では救世主になれるかもしれない。その誘惑は、あまりにも甘かった。こうして松本智津夫は、現実から精神の世界へと、深く足を踏み入れていく。
そしてこの直後、留置所を出たばかりの男の前に、彼の燻る野心に冷徹なロジックと「仕組み」を与える、運命の道標が現れることになる。
第四章:神になれる世界
1980年代の初め。松本智津夫は、30歳に近づいていた。
振り返れば、彼の半生は挫折の連なりだった。医師にはなれず、東京大学にも入れず、政治家への夢も遠のいた。一発逆転を狙った実業の世界でも、成功しかけては破れ、ついには薬事法違反による逮捕まで経験した。普通の人間なら、心が折れていても不思議ではない。
だが、智津夫は違った。彼は、自分の失敗を認めることができなかった。いや、認めたくなかったのだ。 「自分は、選ばれるべき人間だ。自分は本来、もっと大きな存在になるはずの人間だ」 その歪んだ自己愛と飢餓感だけは、現実にどれほど打ちのめされ、這いつくばらされても、消えることがなかった。だからこそ彼は、現実社会のルール(学歴、資格、資本)を完全に放棄し、別の世界に救いを求めていく。 精神の世界。神秘の世界。宗教の世界である。
時代もまた、彼の妄想を後押しするかのように、怪しく味方していた。 1974年(昭和49年)、テレビ画面の向こうで、一人の青年が手も触れずにスプーンを曲げてみせた。イスラエルからやって来た超能力者、ユリ・ゲラー。その映像は日本の茶の間を席巻し、社会現象としての「超能力ブーム」を巻き起こした。少年雑誌はこぞって超能力や超常現象を特集し、高度経済成長を経て物質的な豊かさを手にした日本社会では、その反動のように「心の豊かさ」やスピリチュアルな何かを求める人々が確実に増え始めていた。ニューエイジ思想、ヨガ、気功、瞑想が、生き方に迷う若者たちの間に静かなうねりとなって広がっていく。
智津夫もまた、その時代の激流のただなかにいた。彼は宗教や精神世界の書物を貪るように読み漁り、ヨガの修行に没頭した。呼吸法を学び、瞑想を重ね、そして次第に、自らの体験を特別なものとして周囲に語り始める。
あの「クンダリニー覚醒」である。尾てい骨のあたりから立ちのぼり、頭の頂きを突き抜け、脳内でショートした灼けるようなエネルギー。それが客観的に何であったのか、深い集中がもたらした錯覚なのか、張りつめた神経の昂ぶりなのか、確かな答えはない。
だが、智津夫にとって事実がどうであったかは重要ではなかった。重要なのは、そこに宿る「意味」だった。彼はその体験をこう解釈した。
――自分は、悟りに近づいている。
――自分は、普通の人間ではない。
――自分は、選ばれた存在なのだ。
その瞬間、人生の景色が完全に塗り替わった。 現実の世界では、ただの前科者であり、敗北者だった。だが、精神の世界では違う。そこには学歴も、受験も、資格試験もなかった。東大に二度落ちた過去も、薬事法違反の前科も、ここでは何の意味も持たない。必要なのはただ一つ、自分は深い境地に達したのだと信じること、そして、それを信じてくれる人々がいることだった。
智津夫は、少しずつ周囲に語り始める。 「私には、君たちの身体を流れる『気(プラーナ)』が見える」 「他人の心が読める。手をかざせば、あらゆる病を癒すことができる。修行によって特別な力を得たのだ」
そうした話は、語られるたびに尾ひれを増やしながら、怪しげな磁力となって広がっていった。不思議なことに、それを信じる者が現れ始める。彼の周りに集まってきた学生や若者たちの多くは、真面目で、頭も良かった。だが同時に、受験競争や就職競争に追われ、何もかもが管理され点数で測られる近代社会への違和感と、将来への言い知れぬ不安を抱えていた。そんな時代の息苦しさの中で、智津夫の語る精神世界は、ひどく魅力的に映った。
「人間には、無限の可能性がある」 「修行を積めば、誰もが悟りに至れる。この社会の価値観のほうが間違っているのだ」
その言葉は、社会の歯車になることを拒絶した若きエリートたちの胸に深く響いた。そして何より、彼自身が揺るぎない、圧倒的な「確信」をもって語っていた。確信は、人を惹きつける。たとえそれが事実でなくても、事実かどうか誰にも分からなくても。
智津夫は、生まれて初めて味わっていた。人々が自分の言葉を信じ、自分を敬い、自分を必要とする全能感を。 それは、選挙に落ち続けた少年時代には得られなかったものだった。東大に二度落ち、現世から拒絶された青年時代にも、決して得られなかったものだった。彼は、気づき始めていた。
「政治家にならなくても、人は動かせる。医師にならなくても、人の生殺与奪の権は握れる。学歴がなくても、人の上に立てる。そして宗教の世界では、ときに人は――神にさえなれるのだ」
その悪魔的な発見は、彼の脳内のアドレナリンを限界まで分泌させた。智津夫は、それまで読み漁ってきたヨガ、原始仏教、チベット密教、ヒンドゥー教の神話、そして超能力といった神秘思想の断片を自分なりに組み合わせ、自分を頂点とする「新しい世界の物語」を構築し始めた。
人は理屈だけでは動かない、物語によって動くのだ。平凡な日常よりも特別な使命を欲し、冷たい現実よりも温かい希望を求める。自分はその希望を与えられる存在になれるのではないか――。
現世の敗北者だった松本智津夫は、精神世界という無限の権力が約束された領域で、自らが「神」となるための王道を歩み始めていた。しかし、この時点ではまだ、自らの野心をどこへ向ければいいのか、その具体的な「手段」と「出口」を完全には見出せずにいた。
そんな1982年の冬。手探りで「神の座」を求める智津夫の前に、彼の燻る野心に決定的な火を放ち、人を集め、金を集め、人の上に立つための冷徹な「仕組み」を教え込む、ひとりのカリスマとの運命の出会いが待ち受けていた。
第五章:運命の言葉
1982年(昭和57年)11月。薬事法違反による逮捕から数か月が過ぎた秋の終わり、松本智津夫は人生最大級の壁に突き当たっていた。
内なる精神世界では「選ばれた存在(クンダリニー覚醒)」という絶対的な全能感を得たとはいえ、現実世界の彼はただの失業者であり、社会の底辺に這いつくばる前科者に過ぎなかった。漢方薬局「アジア堂」の成功で掴みかけた巨万の富は一瞬で瓦解し、手元に残ったのは借金と、生活の目処を失った家庭の冷ややかな視線だけ。現世での足場を失い、かといって精神世界のなかでも独自の旗を揚げきれない。そのジレンマが、彼の魂を内側から焼き尽くそうとしていた。
だが、彼の野心は消えていなかった。むしろ、挫折を重ねるたびに、その炎は内側でひそやかに燃え続けていた。逮捕のあと、彼は現実から目を背けるように『ヨーガ・スートラ』を読みふけり、修行に没頭して精神の世界へいっそう深く沈んでいった。
そんな時だった。彼は一人の男の存在を知る。 西山祥雲。 経営塾や複数のセミナー、団体を運営し、独特の思想とカリスマ性で多くの人間を惹きつけていた実業家であり、精神修養の指導者でもあった。
その姿は、当時の松本にとって眩しく映った。なぜなら西山は、松本がなりたかった姿――金があり、信奉者がおり、人を動かす絶対的な影響力を持ち、社会的な地位も名誉も得ているという姿――をそのまま体現しているように見えたからである。すべてを兼ね備えた西山に近づけば、この閉塞した状況を打破するヒントが得られるかもしれない。そう直感した智津夫は、貪欲なまでの執念で西山の組織の門を叩いた。
「この男の下で頭角を現し、ゆくゆくは組織の幹部、いや、後継者の座を奪い取ってやる」
かつて盲学校の柔道部やアジア堂の経営で見せたあの異常なまでの上昇志向が頭をもたげる。智津夫は西山に認められようと、泥臭く何度もそのもとへ通い、熱心に教えを請うた。西山との交流のなかで、智津夫は新しい名前の断片を授けられる。「彰晃」。のちに世間が震え上がることになるその名の一文字だった。彼はこの頃から「松本彰晃」と名乗り始める。
しかし、現実は甘くなかった。西山の鋭い審美眼の前に、智津夫の粗暴さや、内に秘めた歪んだ権力欲は見透かされていたのかもしれない。幹部候補生として特別に引き上げられることもなく、大勢いる有象無象の受講生の一人として扱われ続けた。またしても、選ばれなかったのだ。
だが、彼は諦めなかった。プライドを捨てて西山の懐に飛び込み、人を惹きつけるカリスマのテクニックを冷徹に盗み見ようとした。そして、それだけでは満足できず、弟子になって間もない身でありながら、西山に「あなたのセミナーの、副教祖にしてほしい」と性急な懇願まで狂わせた。
そのときのことだと伝えられている。松本は、右手で輪をつくり、左の手のひらを上に向けて膝に置いた。仏像が結ぶ、あの神々しい印のかたちである。そして笑いながら、釈迦の結ぶその印を、銭を寄こせという催促のしぐさになぞらえてみせた。
それは、彼が宗教というものをどう見ていたかを、何より雄弁に物語る振る舞いだった。 彼にとって宗教とは、最初から悟りでも救済でもなく、金を集め、人を従える、一つの「仕組み(テクノロジー)」だったのである。
西山は、その不遜さに激怒した。 すると、松本は――突然、子どものように声を上げて泣き出した。 自分より上の者の前で、たちまち崩れて泣きじゃくったのである。
そこには、二つの顔が不気味に同居していた。 宗教を権力と金の装置として冷ややかに見抜く、計算高いサイコパスのような顔。 そして、認められないとなると、たちまち幼児退行して泣き叫ぶ、満たされない少年の顔。 盲学校の選挙で落ちて引きこもったあの少年、東大に二度落ちて行き場をなくしたあの青年が、地続きのままそこにいた。
しかし、西山はそんな松本のぎらついた濁った目を見つめ、静かに問いかけた。 「松本くん。君は一体、何になりたいんだね」
その問いに、智津夫は一切の躊躇なく、心の奥底に封印していたはずの「本音」を吐露した。 「政治家です。国を動かす、政治家になりたいんです」
少年時代から抱き続け、東大受験に挫折してなお燻り続けていた「内閣総理大臣」への夢。現世の頂点に立ち、自分を見下したすべての人間を見下ろし返したいという、狂おしいほどの怨念だった。 すると西山は、ふっと薄い笑みを浮かべ、淡々と言い放った。
「政治家になるには、莫大な金がいる。君にそれがあるかね?」
智津夫は言葉を失い、黙って西山を見つめるしかなかった。今の自分には、前科と借金しかない。西山は静かに続けた。
「だがね、松本くん。宗教家なら、金がなくても、今すぐにでもなれるんだよ」
その一言は、まるで轟音を立てて智津夫の脳髄に落ちた稲妻だった。五臓六腑が激しく揺さぶられるような衝撃が走る。 それまでの智津夫にとって、宗教や精神世界とは、自らの劣等感を癒すための「隠れ家」であり、自らの神秘体験を深めるための世界だった。しかし西山の言葉は違った。宗教を、現世のシステムを遥かに凌駕する「最強の権力ツール」として、冷徹に定義してみせたのだ。
西山は、放心する智津夫に向けてさらに言葉を重ねた。 「この世には、悩みを抱えた人間が星の数ほどいる。既成の社会に絶望し、救いを求める人間も必ずいる。人はね、圧倒的な確信を持って自分を導いてくれる『強者』を、本能的に求めているものなのだよ」
智津夫は震える手でノートを取り出し、西山の言葉を狂ったように書き留めた。一文字も聞き漏らすまいと、わずかに視える右目を血走らせてペンを走らせた。 どの言葉も、彼がこれまでの人生で嫌というほど味わってきた「現実の裏返し」だった。そうだ。人は正しいから従うのではない。強い者に従うのだ。自分自身が、誰よりも「お前は特別な存在だ」と導いてくれる誰かを求めていたではないか。ならば、自分がその「導く側の絶対者」になればいい。
政治家にならなくても、法律を超えたルールで人を支配できる。医師にならなくても、魂の救済という名目で他人の運命を掌握できる。東大の学歴などなくとも、現世に絶望したエリートたちを足元に跪かせることができる。そのための唯一にして最強のシステム――それが「宗教」だった。
この日を境に、松本智津夫のなかで完全なパラダイムシフトが起きた。彼は、単に自分が「悟ること」から、「悟った全能の指導者として、いかに人々に見せるか」という、演出と支配のテクノロジーへとその狂気を特化させ始めた。第四章で得たクンダリニーの確信は、今や西山の冷徹な方法論と融合し、「教団」という名の絶対権力を生み出すためのエネルギーへと変貌したのだ。
さらにこの頃、松本はもう一つの宗教団体とも深く関わっていた。阿含宗である。入信したのは、逮捕より前の1980年頃のことだった。彼はそこで、教団というものの「仕組み」をつぶさに学びとっていく。 日々の修行のパッケージ化、一般人が入りやすい敷居の低さ、マスメディアの効果的な使い方、そして、教祖の「法力(超能力)」が人を惹きつける、その構造。のちにオウムで再現されることになる集客とマインドコントロールの方法論の多くを、彼はこの時期に貪欲に吸収していた。
だが、1983年の夏。彼は阿含宗を離れる。その教えが、本来の経典とはかけ離れていると感じたためだったという。学ぶべきものは、学んだ。あとは、自分の手で組み立てればいい。彼は、他人の教えのなかに、いつまでも収まる男ではなかった。
やがて松本は、自ら若者たちを集め、能力開発やヨガの指導を本格的に開始する。都内の狭いアパートやレンタルスペースを借りた教室は、決して大きくはなかった。集まる人数も、わずか数人、十数人の規模に過ぎなかった。
それでも彼は、確かな手応えを感じていた。胡坐をかき、阿修羅のような眼光で受講生たちを見下ろす彼の言葉には、西山から盗んだ「絶対的な支配者」のトーンが完璧に宿っていた。自分の話を真剣に聞き、自分の言葉に心を動かされ、自分を「先生」「師(グル)」と呼んで縋り付いてくる若者たち。その頭を撫でながら、彰晃は確信していた。
「これだ。このシステムこそが、俺を世界の王にする」
仏教も、ヨガも、ヒンドゥーの教えも、神秘主義も、すべての宗教は彼が人を支配するための都合の良い「部品」に過ぎなくなった。それらを混ぜ合わせ、自分だけの世界観を組み上げていった。 そして、この支配の実験室のなかで、彼の胸の奥に、もう一つの、恐るべき誇大妄想の種が芽吹き始めていた。
自分は、ただの修行者ではない。ただの指導者でもない。もっと大きな存在になれるのではないか。 もしかすると――自分こそが、人類を救済する「救世主」なのではないか。
その発想は、まだ小さな種に過ぎなかった。だが、種は確実に芽を出していた。やがてその芽は巨大な樹となり、数千人もの信者を抱える教団を生み出し、日本社会を根底から震撼させることになる。
だが、その前に、もう一つの決定的な出会いが彼を待っていた。 超能力。古代文明。古代の超科学。終末の予言。そして、「ハルマゲドン」という名の、世界の終わりをめぐる思想との出会いである。
「松本彰晃」は、もうただの修行者ではなかった。 彼は少しずつ、自らを救世主として演じ始めていた。そしてまもなく、彼は本名すら脱ぎ捨て、まったく新しい名のもとに、完全なる「怪物」へと生まれ変わろうとしていたのである。
第六章:浅原商工誕生
1983年(昭和58年)。松本智津夫という男の輪郭は、ゆっくりと、しかし確実に、この世界から消え失せようとしていた。
かつて熊本の貧困の中で親を恨んだ少年。盲学校の選挙で惨敗し、東京大学の門前で跪き、漢方薬の不正販売で手錠をかけられた男。そんな「みじめな敗北の記憶」にまみれた皮膚を、彼は内側から引き破るようにして脱ぎ捨てた。過去の失敗だらけの自分との完全なる決別。その象徴として、彼はこの年の夏に阿含宗を離れ、東京・渋谷区桜丘に仙道、ヨーガ、東洋医学を一つに束ねた能力開発の塾「鳳凰慶林館」を開く。
そこで、二十八歳の彼は「松本智津夫」という本名を完全に脱ぎ捨て、まったく新しい偽名を名乗り始めた。
「麻原彰晃」
アサハラ・ショウコウ。それは、単なるビジネスのための芸名ではなかった。現世のルールによって裁かれ、拒絶され続けた己を抹殺し、精神世界の絶対君主として生まれ変わるための、不可逆の儀式だったのだ。 のちに彼は、弟子からその名の意味を問われ、こう答えている。 「アシュラ・シャカ(阿修羅界の釈迦)だ」 すなわち、「戦うブッダ」。その三文字のなかには、本来決して結びついてはならない二つのものが、固く縫い合わされていた。悟りに至った者の静けさと、終わりなき闘争を生きる者の憤り。救世主でありながら戦士、慈悲を説きながら刃を握る者。このとき、その名のなかに隠された悍(おぞ)ましい予言を読み解ける者は誰一人いなかったが、男は自らの未来を、その名の中に完全に書き込んでしまっていた。
鳳凰慶林館、そして1984年(昭和59年)にヨガ道場へと改めた「オウムの会」(同年5月には株式会社オウムを設立)は、表向きは健康法や超能力開発を謳う場だった。 当時の日本は、バブル経済前夜の浮足立った狂騒に包まれていた。誰もが金とモノの消費に狂奔する一方で、そのシステムに馴染めない、あるいは過度な近代化と管理社会に息苦しさを覚える若者たちが、東京の片隅で「自分探しの答え」を求めて彷徨っていた。麻原は、彼らの心の渇きを、まるで獲物の血の匂いを嗅ぎつける野獣のような鋭さで察知していた。
薄暗い教室、お香の煙が立ち込める中心で、長い髪と髭を蓄え始めた麻原は、信徒たちを見下して朗々と語りかけた。 「現在の学校教育も、社会システムも、すべては人間の魂を腐らせる凡夫の妄想に過ぎない」 「人間には、眠れる無限の可能性(超能力)がある。正しい修行を行えば、誰でも空中を浮揚し、すべての苦悩から解脱できるのだ」
その言葉は、社会の歯車になることを拒絶した若きエリートや、純粋すぎる理想主義者たちの胸に深く突き刺さった。
だが、驚くべきことに、この時期の麻原はまだ、完成された絶対的教祖になりきれていたわけではなかった。当時を知る初期の会員の証言によれば、麻原は中性的な雰囲気のヨーガの先生といったところで、まだ人に命令するようなタイプではなく、自らが構築した「修行による解脱」という物語に、自らも本気で殉じようとし、迷い、苦しんでいた形跡がある。 深夜、一人で瞑想を行いながら、突然頭を抱えて畳に鮃(ひれ)伏し、 「悟れない……どうしても、本物の悟りに至れない……!」 と、頭を打ち付けて慟哭(どつこく)することがあったという。
西山小運から得た「宗教=権力」という冷徹なロジックを頭では理解しつつも、相変わらず右目が少ししか視えない「哀れな肉体」という冷酷な現実に、彼は精神を引き裂かれるような恐怖を味わっていたのだ。しかし、その迷いすらも、運命は最悪の形で塗り替えていく。
1984年2月、麻原は「オウム神仙の会」を設立する。のちに世界を震撼させるオウム真理教の直接の母体である。活動拠点は、東京都渋谷区桜丘町のマンションの一室。狭い和室に祭壇を設け、数人の若者が寝食を共にする、宗教団体というにはあまりにも矮小な集まりに過ぎなかった。
しかし、ここで麻原の狂気を爆発させる「決定的な触媒」が揃う。のちに教団の最高幹部となり、無差別テロの実行犯となる村井秀夫をはじめとする、若いエリートや熱心な女性信者たちの登場である。 彼らは理性の塊のような頭脳を持ちながらも、既存の社会が隠蔽する「死への恐怖」や「生きる意味」という問いに対してあまりにも脆弱だった。彼らは麻原をただのヨガ講師としてではなく、自分たちを次元上昇(アセンション)させてくれる絶対的な「師(グル)」として、一点の疑いもなく狂信的な眼差しで見つめた。
麻原は気づいた。人は理屈では動かない。もっと巨大で、圧倒的な「物語」によってのみ動くのだ。人は退屈な現実よりも残酷で美しい嘘を求め、平凡な日常を生きるよりも、世界の運命を左右する「特別な使命」を与えられることを切望している。ならば、彼らが望む最高のステージを、自分が提供してやればいい。
この頃から、麻原はオカルト雑誌の情報を貪り食うようにして、自らの思想を肥大化させていった。 1973年に出版され、250万部を超える大ベストセラーとなった五島勉の『ノストラダムスの大予言』以来、日本社会には未来への不安を背景とした「世紀末ブーム」「オカルトブーム」の波が根強く残っていた。麻原は、古代文明ムーやアトランティス、ピラミッドの謎、失われた超科学、予言、そして終末思想を貪るように読んだ。彼の本棚には、世界の滅亡シナリオを描いた本のほか、ヒトラーの『我が闘争』までもが並んでいたという。
一般の知識人が「幼稚な絵空事」として一笑に付すオカルトの断片を、麻原は本気で信じた。なぜなら、それらの物語はすべて、「現世のシステムでは敗北者だった松本智津夫が、なぜこれほど苦しまねばならなかったのか」という問いに対する、完璧な回答(言い訳)を与えてくれたからだ。 ――私は失敗者ではない。現世の汚れきった歴史と凡夫どもが、選ばれた存在である私を排斥したのだ。
そして、オカルトの深淵を覗き込み続けた麻原は、ついに最悪のキラーコンテンツと邂逅(かいこう)する。当時のサブカルチャーを席巻していた、世界の終わりをめぐる思想。
――ハルマゲドン。
この言葉に出会った瞬間、麻原の脳内で、バラバラだったすべてのパズルが不気味な音を立てて噛み合った。もし、この世界が近いうちに滅びるというのなら、現世の学歴も、金も、国家権力も、すべては一瞬で灰燼(かいじん)に帰す。その時、生き残ることができるのは、自分の下で高い霊性を身につけた、選ばれた者たちだけだ。そして、その破滅の炎の中から人類を導く、新たなる時代の王――「それこそが、この俺――麻原彰晃だ」
幼い頃、寄宿舎の闇で「選ばれたい」と泣いていた少年の渇望。東大に落ち、現世から拒絶された青年の怨念。それらは今、「自分は最初から世界を救うために選ばれていたのだ」という、狂気的な確信へと完全に入れ替わった。
「選ばれた人間になりたい」ではない。「自分はすでに選ばれている」という確信へ。その違いは決定的だった。選ばれることを望む者は、まだ現実の中にいる。だが、自分が選ばれたと信じた瞬間、人は現実の重力から完全に解き放たれ、狂気の軌道へと飛び立ってしまう。麻原は、完全にその境界線を越えた。
小さなマンションの一室、怪しげな薬草の匂いと若者たちの熱気の中で、麻原はゆっくりと宙へ身体を浮かせようと、跳躍を繰り返していた。のちに多くの若者を引き寄せることになる「空中浮揚」の決定的な写真が撮影されたのも、この狂気と妄想の孵化器の中だった。
松本智津夫という哀れな男は、もうどこにもいない。そこにいたのは、自らを救世主と信じ込み、その誇大妄想の物語で若者たちの魂をハッキングし始めた男。「教祖・麻原彰晃」の完全なる誕生であった。
漆黒の法衣をまとい、若者たちの崇拝の視線を浴びながら、麻原は世界の破滅を幻視していた。その先に待つのが、真の救済なのか、それとも地獄の業火なのか。この時はまだ、誰も知る由がなかった。
エピローグ:選ばれた勝った男
1955年(昭和30年)、昭和の泥臭い熱気が残る熊本の片隅で、一人の少年が産声を上げた。 松本智津夫。 彼は、生まれながらにして頭に角(つの)を生やした悪魔でも、天から遣わされた冷酷な怪物でもなかった。
幼少期の彼は、ただの、あまりにもありふれた一人の人間に過ぎなかった。寂しい夕暮れに親の温もりを求め、学校の教室で友達に「すごいね」と褒められたいと願い、人より少しでも優れた存在でありたいと夢見る。それは、私たちが少年時代に一度は胸に抱く、ごく一般的な承認への渇望だった。
しかし、彼の前に用意された人生のレールは、あまりにも残酷で、あまりにも不条理だった。 生まれながらの重い視覚障害。逃れようのない、どん底の貧困。そしてわずか6歳にして、理由も分からぬまま家族から引き離され、盲学校の寄宿舎へと放り込まれた「見捨てられ体験」。人気のなくなった薄暗い廊下で、よその家族の楽しげな笑い声を窓辺で聞きながら、一人ベッドの上で膝を抱えていた少年の心は、ある日を境に涙を流すことをやめた。その代わりに、自らを拒絶した世界全体に対する、どす黒い「怒り」と「復讐心」を、自らの生きるエネルギーとして燃やし始めたのだ。
「誰も僕を選んでくれないのなら、僕の力で、この世界を僕の足元に跪かせてやる」
そこからの彼の歩みは、現世の階段を毟(むし)り取るようにして上ろうとする、血みどろの執念そのものだった。だが、彼が手を伸ばした現世のシステム――医学部の受験、東京大学への進学、国を動かす政治家への夢、実業での巨万の富――そのすべては、彼がその尻尾を掴みかけるたびに、冷酷に彼を突き落とした。「お前は、こちら側の人間ではない」と。振り返れば、その歩みは失敗と挫折の連なりだった。
現世のルールに徹底的に拒絶され、前科と借金だけを背負わされて泥水に這いつくばった男が、最後に辿り着いたのが「宗教」という名の、目に見えない精神世界だった。
そこには、彼を落選させる選挙もなければ、不合格を突きつける入試も、前科を咎める法律もなかった。必要なのは、ただひとつ。自分が「悟った」と強烈に信じ込み、その物語を他者に信じ込ませること。それだけだった。
都内の狭いマンションの一室、怪しげなお香の煙が立ち込める中で、麻原彰晃は人生で初めて、自分がずっと欲しくてたまらなかったものを手に入れる。自分を慕う人々を。自分の言葉に耳を傾ける若者たちを。自分を特別な存在だと信じる信者たちを。彼が長く求め続けた承認は、ようやくそこにあった。
だが、それは救いであると同時に、危うい始まりでもあった。
人は、ときとして自分を信じてくれる人々に囲まれることで、現実を見失う。周囲が否定してくれなくなり、間違いを指摘してくれる者がいなくなるからだ。そして何より、自分自身が神になったかのような錯覚に陥るからだ。麻原彰晃は、まさにその道を歩み始めていた。
選ばれたいと願っていた男は、やがて、自分は選ばれた人間だと信じるようになった。 認められたいと願っていた男は、やがて、自分こそが人々を導く存在だと考えるようになった。 そして、救世主になりたいと願っていた男は、ついに、救世主を演じ始めたのである。
だが、ここで一つ、絶対に忘れてはならないことがある。 彼がどれほど傷つき、どれほど満たされず、どれほど認められたかったとしても――それは、のちに彼が犯すことになる残虐な罪の、いかなる言い訳にもならない。
一人の少年がなぜ怪物になったのか。その軌跡を理解しようとすることは、その怪物を赦すことでは決してない。
あの1995年3月の朝、混み合う地下鉄の車内で倒れ、口から泡を吹き、二度と立ち上がれなかった人々。最愛の家族の帰りを、いまも待ち続けることになった人々。彼らの筆舌に尽くしがたい苦しみの前では、教祖の哀れな生い立ちなど、ひとかけらの免罪符にも、言い訳にもならないのだ。
それでも、私たちが彼の軌跡をたどるのはなぜか。 それは、彼が私たちとは全く違う、特別な宇宙人としての怪物だったからではない。むしろ、その逆だ。
認められたい。 選ばれたい。 特別でありたい。
その願いは、私たちの誰もが、胸のどこかに抱えている。ありふれた、ささやかなその渇きが、どこで道を踏み外し、いかにして巨大な狂気へと姿を変えていくのか。その分かれ道を見つめることは、決して過去の一人の男だけの話ではない。
そして、1980年代半ばのこの時点では、まだ誰も知らない。彼自身でさえ、知らなかったかもしれない。 この小さなヨガ道場が、この小さな修行の集まりが、やがて日本社会を根底から震撼させる巨大な宗教組織へと成長していくことを。数千人もの若者が人生を捧げることを。数え切れない家庭が引き裂かれることを。そして、多くの命が失われることを。
麻原彰晃は、まだ「教祖」になったばかりだった。 本当の地獄は、これから始まる。
次回予告:後編『救世主から独裁者へ』
「オウム神仙の会」は、やがて「オウム真理教」へとその名を改め、宗教法人としての認可を獲得する。 富士の裾野に築かれる巨大なサティアン、出家制度による信徒の完全な隔離。そして、麻原の言葉を「絶対の命(ヴァジラヤーナ)」として受け入れる信徒たち。 選ばれたかった男は、いかにして「神」となり、いかにして国家をも揺るがす独裁者へと変貌していったのか。物語は、いよいよ血と狂気に彩られた教団の暗部へと突入する。




























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