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鶯谷を歩く

鶯谷を歩く

【Youtube】ディープエリアといい店やれる店のブログ版です

 JR山手線の鶯谷駅は北口改札と南口改札の二つの改札口がある。南口改札は高台にあり、上野公園方面へ行く人々が多く利用する。
 一方、北口改札は、根岸方面へ行く時にはこちらの駅を利用する。その北口改札を出るとラブホテルが密集するエリアが目の前ある。
 そこでは多くの男女がスマホ片手に待ち合わせをしている。鶯谷は多くの熟女系派遣風俗店や韓国系派遣風俗店などの多く比較的安価な風俗店が集まり一大性産業の町でもある。
 当然そこには反社会勢力の活動もある。2019年4月には、鶯谷北口駅前でみかじめ料を巡る暴力団同士の縄張り争いで暴力団組長ら3人が傷害容疑で逮捕される事件もあった。まぁ、どこの繁華街でも起こるありふれた事件でもあるのだが。

まだ明るいので昭和の花街の名残、根岸三業地まで足を延ばしてみよう。大正末期ごろが最も栄えていたようで、芸妓置屋が40件、芸妓139人、待合30件という規模だったようだ。戦後花街は復活し現在も数件が料亭として営業しているそうだ。周辺に残っているレトロな建物も残っていることからも東京大空襲で焼失しなかった地域であることがわかる。

 また華族や実業家など富裕層の別荘が点在して地でもある。お妾さんが多く囲われていた地としても有名である。晩年をこの地で暮らした子規は、「妻よりは妾の多し門涼み」という皮肉まじりの句をよんでいる。古いちょっとしゃれた家はかってどこかの大旦那に囲われていたお妾さんが済んでいたのかもしれない。

 北口改札を出ると左斜め前にコンビニ、線路沿いに右方向に歩くと中華料理屋、居酒屋問いが数件並びその先はラブホテル街だ。


ラブホテル街は迷路のように密集し立ち並んでいる。
そしてホテル前ではスマホ片手に男性が画面を見つめている。
これから利用するデリヘルの検索でもしているのか。
そして大きな荷物を持った女性が一人でラブホテルに入っていく。
誰も気に留めることはない日常の光景である。

 鶯谷駅前のラブホテル街は、太平洋戦争時、この辺りは東京大空襲によって焼野原になってしまったのでその跡地にホテル街が形成されたというブログ等の記事もあるが、根岸は古い建物も多く残っているため東京大空襲からは逃れた場所ではないのかと思う。


 ここは「上野」駅に近いという立地から、戦後、行商人や出稼ぎ労務者そして集団就職などで上京してきた人たちをターゲットにした簡易宿泊所が多く開業した。しかし日本が復興しその時代の流れとともにそのような客は減少していった。
 そこで男女向けの休憩営業を行う旅館、つまり「連れ込み旅館」だ。そこに生き残りをかけ、現在のようなラブホテル街となっていった。

 1999年に風営法が改正されたことにより、無店舗型が認められ、デリへルが多く開業した。その時にラブホテルが密集するここ鶯谷を拠点とするデリヘル業者が多く開業したのは納得できる。

 元三島神社というホテル街の中にある神社。ここは下谷七福神巡りの一つでもあり、寿老人を祀っている。


 2004年に石原慎太郎東京都知事(当時)によって旗揚げされた「歌舞伎町浄化作戦」の影響のためか韓デリは、新宿(大久保)から鶯谷へと本拠地を変えていった。


 鶯谷と言えば、人妻、ぽっちゃり(すぎ)、おばさんのイメージ(事実です)でしたが、韓国デリヘルが増え若い、モデル顔負けの整形美女が鶯谷のホテル街を徘徊していました。 
彼女たちは日本で風俗の仕事をしても国ではばれないという思いから来日して働いていたようです。彼女たちは韓国での整形代金を自国の闇金融で借金をしてその返済のためここ日本で稼いだそうです。韓国では金融業、闇金も多く若い女性でも体を担保に簡単にお金を貸してくれたようです。そしてブローカーを通じて日本に借金返済にため来日したそうです。
 借金返済のための仕事はきつく、当時は24時間営業でタコ部屋マンションに複数人が押し込められ電話があると朝昼晩関係なくホテルに出向き仕事をしたそうです。中には仕事中に寝落ちしてしまう嬢もいたとか聞きます。
 しかし、タカハシ盗撮事件等の影響もあり日本で働き身バレするリスクから韓国の女性から敬遠されるようになりましました。
そしてコロナによって壊滅的状況です。
コロナが明け韓国からの嬢が集まらなければ日本人で営業するお店が増えます。現在純粋な韓国デリ嬢のお店は数件のみになってしまったそうです。
 今回取材で鶯谷のラブホテル街を歩くと熟しすぎた嬢と廻しの似合いそうな嬢が多かった気がします。
 さて、これから鶯谷ラブホテルエリアの中華、で軽く飲んで食事をすることにする。
この店は価格は昭和時代を踏襲しており、料理もおいしくお気に入りの店でもある。

また、安くて美味しい店もこのラブホテル街には多い。そこもおいおい紹介していく。

 鶯谷ウォッチ

谷と根岸の鶯  江戸時代には寛永寺の住職は代々京都から皇族が入り貫主をつとめていました。
そのひとり※公辨法親王(こうべんほっしんのう)は上野の森の鶯の鳴きはじめが遅く、また鳴き声も麗しくないことを憂い、親友の尾形乾山に命じ京から美声で早鳴きする鶯を運ばせ、根岸の里に放鳥したといいます。

それからは根岸の鶯は美しい声で鳴くようになり、江戸府内でも最初に鳴き出す「初音の里」として有名になったということで、これが「鶯谷」の地名の由来とされているようです。