木更津には今も芸者がも凝っている。芸を売りにする芸者であって、枕をする芸者ではない。
かっては海軍のあった街である。軍のある所には遊郭があった。もちろん木更津にもあった。話はソレルが終戦近くには震洋も配備されたようである。震洋は館山市洲崎、勝浦市鵜原に配備されたようなのでどちらかで見たのかもしれない。祖父は東金出身なので父はその辺に行ったこともあったのかもしれない。父曰くあんなベニヤ板で作ったような船でアメリカに勝てるはずがない、と言っていました。
私の親は死んでしまい、おばあさんに育てられた。かなり貧しい買ったと思われます。中学を卒業するとき年季のあけて帰ってきた近所のおねぇさんに、そういうところがあると教わり、中学を卒業すると祖母に弟と妹をまかえ弟と妹には遠くの工場に働きに行くといって、その場所に働きに行った。唯一の楽しみは水曜日の休みに木更津の町へ行き映画を見て帰りにあんみつを食べることだった。とあった。
戦前の地図を見ると一の鳥居から八幡神社までが参道でありかなりにぎわったことと思われっる。今でも立派な鳥居が海に面して残っているb。場所は正確には分からないが、この猥雑な飲み屋街が遊郭または私娼窟ではないかと思う。いやこの猥雑さから言って昭和33年以降の青線か?赤線が廃止された後もそのような仕事で生きた方々はほかに簡単に手mん職できない人も多かった。小さな飲み屋を始めてお客を取っていたのかもしれない。今でもこの辺りは細い路地と年季の入った店が連なっている。
少し歩いてみよう、昼間歩いただけでは営業しているのかすでに愛業していないのかわからないのでm日が落ちてから再度歩いてみよう。
ネオンのともっている店もある。少し歩いて気になる店をのぞいてみることにしよう。本八幡にある小さな居酒屋のママはそのようにして子供を育てたという話をその娘から聞いたことがある。
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